宿命
三日もあるのだから、検査の時間が押しているわけではない。一日にいくつかの検査をするだけで、その間は自由時間だった。佳苗を見舞うくらいの時間は十分にある。どうやら佳苗と知り合ったのは、一年前の全体チェックの時だったようで、佳苗と晃少年にとって、記念すべき日だったのだ。
晃少年は、佳苗のことをほとんどと言って知らない。話をすると言っても、核心部分に触れるようなものは何もなく、家族構成がどうなっているのかということから、病名もハッキリとは知らなかった。ただ、佳苗のいる病棟には、普通はなかなか入れないという。そこが精神的な病を患っている人が入るところだということを晃少年はウスウス気付いていたようだが、元々大人の俊三には、そこが異様な雰囲気に包まれていることで、早い段階で分かっていた。
俊三も、中学生の頃、病院通いをしていたことがあった。総合病院に通っていて、そこで初めて精神的な病に罹っている人が入院している病棟を見た。
窓には鉄格子が仕掛けられていて、仰々しい雰囲気が醸し出されていた。その病棟を初めて見た時、ちょうど夕方だったこともあって、砂塵が舞っていたのを覚えている。風に舞う砂塵は黄色い色をしていて、無臭のはずなのに、何か薬品の臭いが漂ってくるようで、嘔吐を催したのを思い出した。
もし、これが晃少年の身体ではなく、俊三自身の身体であれば、薬品の臭いを思い出しただけで、嘔吐を催したことだろう。条件反射によるものだが、気持ち悪さは一瞬で済みそうにもないように思えた。
俊三はその時、一人の女の子が気になっていた。寂しさが漂っている女の子というのは、
――どことなく――
という但し書きが付くものだと思っていたが、彼女の場合は違っていた。露骨に寂しさが現れていた。
――滲み出た――
などという中途半端な表現ではなく、ハッキリと分かるのだった。
ハッキリと分かるというのは、俊三だけではなく、他の人ほとんど全員にも分かるであろうと思えることで、ここまで露骨に寂しさが滲み出ていると、余計なわざとらしさが感じられ、
――気にはなっても、決して友達になりたいとは思わないだろう――
と思えた。
ましてや恋心など微塵も湧いてくるはずもない。気持ち悪さが増幅されるだけで、嘔吐以外の意識は感じられなかった。
その時、黄色い色を感じた。
「黄色というのは、気が違った色」
というのを、子供の頃、まだ物心がついてすぐくらいの頃に聞かされた記憶があり、その思いが頭にこびりついていた。
――やっぱり本当だったんだ――
と、まんざら覚えていたことも無理のないことだったのだと思うと、自分が無意識に記憶していることが他にもないか、探ってみたくなったとしても、無理のないことだったのだろう。
もちろん、無意識に覚えていることを、意識して思い出そうとしてもなかなか思い出せるものではない。それでも思い出そうとしていると、いくつか思い出せそうになるのだが、やはり最後はぼやけてしまって、体力だけ消耗し、思い出すことができなかった。
――それって無駄なことだったのだろうか?
自問自答を繰り返す。
無理なことだったとすれば、それ以後、余計な記憶の詮索はしようとしなかっただろう。しかし、とりあえずは試みてみることを止めなかったのは、一度でも思い出すことができたからなのかも知れない。それがどういう記憶だったのか分からないが、かなり自分の中で印象に残っていることだったのであろう。
俊三が感じた気持ち悪さと、晃少年が感じている思いとは、かなり違っていた。
晃少年は明らかに佳苗のことを好きになっているようだった。
年齢的に言っても、これが初恋であることは分かっていた。それまでに他に好きになった女性がいないのであれば、俊三が感じたものと違っているとしても、それは無理もないことだった。
しかし、俊三が異性に興味を持ち始めたのは、もっと後のこと、お姉さんにだって、女性として興味があったわけではない。そう思うと、俊三はどれが自分の初恋だったのか、分からなくなっていた。
それでも、精神を病んでいた女の子ではないことには違いない。そう思っていると、晃少年が佳苗に感じた思いは初恋であっても、本当の恋ではないと思えていた。
しかし、晃少年の目線に立って見た俊三は、あながち佳苗を気持ち悪いとは思えない。むしろ、純粋な心の持ち主のように見えてきて、晃少年の気持ちも分からなくはない気がしてきた。
もちろん、成就することはないだろう。何しろ異性としての意識がないのだから、友達になることはできても、これ以上好きになることもないはずだ。ただ、気になって仕方のないこの思いは、何かの結論に導いてあげないと。中途半端なままでは悩み続けることになるだろう。
中途半端なままでも、しばらくすると時が解決してくれて、想いは次第に薄れていくことになるだろうが、根本的な解決にならない。何かの拍子に表に出てきて悩むことになったとしても、その悩みがどこから来るものなのか分からずに、余計な悩みを植え付けてしまい、今度は解決してくれるはずの時間も、当てにならなくなってしまうかも知れない。
俊三は、佳苗と話をしてみたいと思うようになった。彼女がなぜゆえに精神が病んでいるのか、知りたくなったからだ。
「佳苗ちゃん」
「あ、晃君。久しぶりね」
佳苗の表情には安堵の様子が見えた。別に他の女の子と何ら変わりのない、屈託のない笑顔ではないか。
笑顔にはいろいろな種類があると俊三は考えていた。
今の佳苗のように、屈託のない笑顔。そして、何かを見つけて安心した時の笑顔。それは今の佳苗からも感じられた。そして、明らかに引きつっている笑顔。それは何かに怯えている自分を隠そうとして無理に作っている笑顔で、見る人によっては、笑顔というよりも、断末魔の表情に見えなくもない。もっとも、断末魔の表情に見える人は、その人も心のどこかに闇を持っていて、普段から不安を隠しきれない人に違いない。俊三は今まで生きてきた中で、そんな人を何人も見てきた。そして、
――自分がそんな表情をしているのではないか――
と感じたことも何度もあった。
子供の晃にも佳苗にも、そんな思いをしたことがないことを祈りたい気分になっていたのも事実だった。
「今回は、知り合った時のように数日ここにいることになるんだよ」
というと、佳苗は素直に喜んでいるのか、
「えっ、そうなの? じゃあ、もっといろいろお話ができるわね」
と言ってくれた。
しかし、その言葉を聞いた時、三日という日が長いようで短いことを俊三は悟った。最初から一日だけだと思っていると、時間配分を考えることもないが、三日という猶予があうとはいえ、ずっと時間があるわけではない。お互いに入院している身、それぞれに診察もある。
だが、それよりも気になっているのは、時間が経つにつれて、時間に対しての考え方が変わってくるということだ。
最初の一日は、
「まだ二日ある」
と思う。しかし、二日目が終わろうとしてくると、
「あと一日しかないではないか」