短編集3(過去作品)
声のトーンが八年前と比べて落ち着いて聞こえる。元々付き合っている頃から隆の前では声色と思えるほど異様に声が高かったので、今が彼女本来の声なのかも知れない。
隆が声にならない声で答えると、望は妖艶に微笑んだ。その表情は八年前そのままであの頃と今の時間差に少なからず戸惑った。
次の日もまた次の日もみゆきと待ち合わせをする時、必ず望はそこにいる。そういえば以前もそうだったが、自分がいて欲しい時に別に約束していたわけでもないのに必ず望が現れる。性格的な相性が合わなかったのに続いた理由はそんなところにもあったのだ。
再会した時に一度、なぜ公園にいたのか聞いたことがある。前のことは忘れたといって笑っていたが、そう言われてしまってはもうそれ以上聞けなくなってしまった。
(半日は一緒にいたはずなのに、いつも数分しか経っていないのはなぜだろう?)
釈然としない毎日であったが、望の前ではすべてが無気力で本能のまま行動する。色が判断でき、体の感触が残る高度な夢なのだ。
最近、みゆきが自分を疑っているのが少し分かる。もちろん望のことなど知るはずはない。自分では気を付けているつもりでも、望との悦楽のあと彼女に会うのだからそれなりに不審な点の多いはずだ。
しかし不思議である。望との悦楽の境地を極めたあとのはずなのにそれほど疲れは感じない。みゆきと会うまでは体に十分すぎるくらい残っている望の温もりも、みゆきの屈託のない笑顔を見ているうちに薄れていくのだ。
(本当に五分間なのかも知れない)
隆はそう思うようになった。夢というのは長編小説が書けるほどのものであっても、それは所詮目が覚める数秒にしか見ていないものらしい。寝ている時に見ているものを夢というだけであって、起きている時に見る夢があってもいいのではないか。それは夢という表現で表わしてはいけないものかも知れないが、寝ている時より実は幻想的なのだ。
それは望に会いたいという一心が作り出す幻想かも知れない。
その日みゆきから電話があることは分かっていた。仕事の関係上、月末はいつもそうだ。もちろん隆も同様で会おうと思えば会えないこともないが、みゆきの仕事はそういうわけにも行かないらしく、昼過ぎくらいに必ず電話が掛かってくる。
「ごめんなさい。今日はダメなの」
「いいよ、気を遣わなくても。それより仕事がんばらなくちゃ」
「そうね、ありがとう」
「ところで結婚後の住まいだけど、いくつかの候補の中からある程度絞り込んだんだ」
以前から不動産屋を二人でまわり、いくつかの候補を上げていた。これから一緒に住むところだから、お互いにいろいろな言い分がある。交通の便、間取り、近くにスーパーがあるかなどの立地条件などを話し合い、いくつかに絞っていたのだ。
最終的な決定権は隆に任されていて、みゆきとしては言い分は最初に通しているだけに不安はない。しかし隆からみれば決定権を持っているだけに決断が近づけばプレッシャーが掛かるらしく、会えば必ずその話になった。
「あなたに任せているんだから、あなたが決めていいのよ」
そう言われると却ってプレッシャーが掛かる。
「そう言われてもねえ」
電話口でため息をついた。
隆の決断力にはみゆきも敬服していた。それだけに新婚の住まいを決めるということはそれなりにプレッシャーの掛かることなのだろう。今までどちらかというと女運のなかったと思っている隆は思い切ったことができたが、人生のパートナーが決まり幸福の絶頂にある今は、却って思い切ったことをする時に躊躇いを感じるようになっていた。
「一緒に見に行ってみましょうか?」
「そうだね、明日にでも行ってみよう」
その日午後からの仕事は忙しかったが、充実感というものは味わえなかった。会社が販売している商品にトラブルが発生し、その対応に追われたからだ。
事務所内では電話対応による謝罪の声が入り交じり、所長は本部と善後策を打ち合わせている。隆としても営業どころではなく、事務所でその対応に追われた。
女性事務員のヒステリックな声に男性社員の殺気立った声、正に修羅場だった。そんな状況は夕方近くまで続いたが、所長はまだ安心できぬとばかりに目が血走っている。
社員にとってもこのいつ終るとも知れない時間は果てしなかったはずだが、一段落つくと口々にあっという間だったとささやいていた。無意識に出た言葉だろうが、気持ちは隆も同様で、心の中で何度も頷いている。
休憩室で最初ぐったりとしていた女性事務員もコーヒーを口にし落ち着いて来ると少しずつ仕事を始め、怒っているとも笑っているともつかない声が次第に大きく響きわたった。表にいることが多い隆にとって女性事務員のあまり知らなかった一面を見た気がしたが、みゆきも同じような会話に参加しているのかと思うと、自分といる時の彼女からは想像もできない。
六時までの会社だったがトラブルのあった日は別で、七時過ぎまでは女性事務員も残って仕事をしていた。夕方までとは打って変わって静かな事務室には空調と端末のキーボードを叩く音が響いているだけだった。あまり静かなのも気持ち悪く、まるで耳鳴りが聞こえてきそうだ。
「お疲れ様でした」
普段なら六時に一斉退社する女性事務員も今日は仕事が終わる時間がまちまちなせいか、一人ずつ静かに帰って行く。残っている者は自分のことが精一杯で返事をしても事務的なもので、帰る方もそんな雰囲気に恐縮しながら帰って行くのだ。本当に重苦しい。
女性事務員が全員退社する頃には隆も一段落ついていた。所長はまだ本部との話が残っているので帰れないらしく、普段は比較的温和な表情をしている所長の顔には近づきにくい雰囲気が浮かんでいた。
隆は疲れた体にカツを入れ立ち上ると、会社を後にした。
隆には少し気になっていることがあった。午前中に掛かって来たみゆきからの電話である。内容として変わったことは別に何もないのだが、問題はその声である。どちらかというとトーンが高く、電話の声となると事務員をしているせいかみゆきの声はさらに高くなる。掛かって来た時の声は確かにみゆきそのもので名乗る以前から誰かは分かっていた。しかしなぜか途中から声のトーンが明らかに落ち、ハスキーな声となっていた。
それはまるで拡声器を使っての声のようにも思われた。その時はあれっと思っただけだったが、仕事が終り、しかも今日のようにバタバタした一日が終わると、頭の中が真っ白になる時間帯があるものだ。それが終わりを告げようとし、頭の中に次第に記憶がインプットされてくると、さっきの電話の声が気に掛かり始めた。
普通であればそれほど気にならないのかも知れない。しかしあれっと思ったのは声のトーンが急に変わったからだけではない。その声に明らかに聞き覚えがあったからだ。その時それほど気にならなかったのは聞き覚えのあることで却ってそれが幻聴のように思えたからである。
その声、それは確かに望の声だった。なるべくみゆきに自分の驚きを悟られぬように振る舞ったつもりだが相手に気付かれなかったであろうか。たぶん気付いてはいないと思うが……。
作品名:短編集3(過去作品) 作家名:森本晃次