短編集3(過去作品)
住職は村人の話から、昼間山に登った五年前と今朝の男の表情が尋常でないことは聞いていた。今は自分もそんな表情をしているのかと思ったが、
──しかし待てよ、月光を背にしているのではなかったか──
そんな状態で果たして顔色まで分かるのだろうか。そんなはずはない、住職は次第に心細くなってきた。
しかしここで歩みをやめるわけには行かない。頂上を目指す目的も目的だが、それよりも今は忘れてきた何かを取りに行こうという思いが強くなってきた。
ゆっくりと歩いていく中、すれ違う人は誰もいない。村はずれまでやってくると、風が出てきたようで、木々の間を吹き抜ける風は、山の表面を不規則に変化させていく。闇の中に浮かび上がる月光に照らされた木々の動きはさながら妖怪が手を広げているかのようであり、五年前が無風だったことを考えると、今回はかなり異様な雰囲気をかもし出している。
しかし山に入ってからは五年前と同じであった。木々の間から差し込む月光によって作られた神秘の道を進んでいけばいいのだ。それは今まで何度も夢に見たことであり、心の中で「これもまた夢では」との一抹の不安を抱きながらではあったが、頭の中での「一体何を忘れてきたのか」という思いが強く作用し、歩みを衰えさせることはなかった。
五年という歳月が短かったのか長かったのか住職は考える。山道を見ている限りではまるで昨日見たような光景だったが、さすがに体力的な衰えは如何ともしがたく息切れを感じる。村の者からいつ見ても若いと言われ続け、自分でも若さに関しては絶対の自信があり、体力も同様だと思っていたにもかかわらず、である。
──若さの秘訣は山にあったのでは──
何となくいろいろなことを思い出してきそうな気がする。確かに光る山を見ている時にはすべてを理解していて、なぜ今日山に登るのか分かっていたはずである。しかしいざ石段を下り始めるとそれが次第に希薄になっていき、「何か大切なものを取りにいく」という漠然としたものだけになってしまった。しかし不思議なのだが、山を見ている時、何かを忘れているという感覚はなかったのである。
目指す頂上が近づいてきたのは、勾配が緩やかになってきたことで分かる。今まで歩いて来た黄金色の月光の道が次第に赤みを帯びた血の色へと変化していき、粘土のような土質から、サラサラした土質へと変ってきたことは、靴を通してでも感じることができる。
何かが光っているのが見える。大きさから見ると昼間の男が持っていたカバンのようだが、昼間見た時は黒系統だったにもかかわらず、目の前にあるのは明らかに光りを浴びて真っ赤に光っている物体である。
住職はゆっくりと近づく。その際足元を気にしながら歩いているのは、土の中でモコモコ蠢いている虫を気にしているからである。住職の頭の中には踏みつけてしまっては元も子もないという思いがあり、ゆっくりと確実に目標に近づいているのだった。
真っ赤に光ったそのカバンは、まさしく昼間の男の持ち物である。あたりを見渡してみた。すると少し離れたところにまわりの真っ赤な風景の中で、唯一真っ白に光るものが、隅の方に固まりとして置かれていることに気が付いた。もちろん住職にはそれが何であるか分かっていてあたりを見渡しているのだ。
それが白骨であることは近づくまでもなく容易に分かることだった。住職は白骨死体がここにあることも、それが一体誰のものであるかも承知の上である。
──それにしても見事にここまで──
さすがの住職も分かっていたこととはいえ、あまりの見事さに驚愕せずにはいられなかった。
──時間とは残酷なものだ──
心の声がそう呟く。それが偶然住職の運命とも符合することを、本人はまだ知らなかった。
昼一人の男がカバンを持って山に入った。山に登ってみると男のカバンはあるが本人はどこにも見当たらず、白骨死体が転がっている。そのまわりには虫が蠢いていて、土の中から顔を出したり隠れたり、その速度の何と速いことか。まるでビデオの早送りを見ているようだ。
人の肉を食らう虫がいても不思議はない。黄金に光り輝くその虫たちは白骨にわずかに残った”残飯整理“に余念がない。住職が近づこうとしているにもかかわらず、お構いなしに同じ動きを繰り返す。
一見、何の変哲もない虫たちである。他の森の中で見ればカブトムシの幼虫くらいにしか見えないだろう。住職がその虫を発見したのは、まったくの偶然だった。
道に迷った住職は気が付くと山に入っていた。生まれ育った有田村のことは隅から隅まで、まるで生き字引のように分かっているはずなのに、いくら夜とはいえ普段であれば考えられないことである。しかしその時目の前で繰り広げられている光景を見た住職は、もはやこの世のものとは思えない顔になっていたことだろう。そう、同じことが今目の前で起こっているのだが、何度見てもその思いが変わることはない。
結末まで何もかも分かっている住職が見つめる中、虫たちに少しずつ変化が訪れた。血の色に輝いている明かりに照らされ、白い体を赤く染めていた虫たちが、自ら光を放つようになったのだ。その色はまさしく黄金色、虫の動きが鈍くなってきたかと思うと、まったく動かなくなったものもいる。完全に黄金化してしまっている。
住職の黄金を見つめる何とも言えない欲望に満ちた顔、それこそが当初の目的だったのだ。金欲に取りつかれた人間がどんな顔をするものなのか容易に想像はできないが、その顔はすでに常軌を逸していたからだ。
今の住職に山を登ってくる時の「何かを忘れてきた」という思いはない。欲望に凝り固まった人格だけに支配され、それ以外は何もない。
住職はすべての虫が黄金に変わったことを確認すると、ゆっくり近づいていく。一気に近づかないのは、あまりにも眩しく力強い光を放つため、肌を刺す見えない鋭利な針のようなものの存在を感じていた。
最初にこの光景を見た時のことが走馬灯のように脳裏を巡る。
目の前に鎧武者が数名、地面に這いつくばって歩いている。息も絶え絶えに向かってくるその眼光は鋭いものであるが、体中は傷だらけ、それこそ虫の息だった。
彼らはいわゆる落ち武者で、戦に破れ命からがら山に迷い込んできたのだ。彼らとしても、ここがどこなのか、おそらく分からなかったであろう。口々に「水、水」と呟いている。
時はまさしく戦国時代、もちろん住職が生きてきた時代とはかけ離れていて、信じられるものではない。それではあまりにもリアルなこの記憶は一体何なのだろう。
恐る恐る武者に近づこうとした時、目に飛び込んできたのが土の中で蠢いている虫たちであった。
「ギャー」
一人の武者が悲鳴を上げる。しばらくすると鎧の間からはみ出してきた虫が、除々に赤みを帯びてくるのを感じた。
──人食い虫だ──
武者の顔から次第に血の気が失せてくる。真っ赤に変色した虫はそれでも容赦なく武者の体を攻め立てる。バッタリと倒れた武者に、すでに息はなく、後は虫たちの食料となるだけだった。
作品名:短編集3(過去作品) 作家名:森本晃次