短編集3(過去作品)
昼間の男が何かに取りつかれたような血色の悪さで、これから死に行くかのようだったのに比べ、住職のその顔にはギラギラとした欲望に満ちた眼差しが浮かんでいた。もちろん深夜のことで見ている者などいようはずもないが、いつもの昼間の住職しか知らない村人にはまず信じられないだろう。
目指す先は苔坊主山、住職にとって初めての苔坊主山である。噂には聞いていたが果たして山に入った住職が見たものは、噂とは幾分かけ離れたものだった。
雨が降っていなくても絶えずジメジメしたところ、足を取られそうなドロドロの土質、そんな印象だった。しかし実際に入ってみると、空気は乾燥していて風は生暖かく、どちらかというと固めの土である。
木々の間から差し込む月の光は鮮やかな黄金色で、よく見ると足元に一本の道を浮き上がらせていた。黄金でできた道を幹を掻き分けながら進んでいくと、頂上まで出られそうな気がした住職は自然と足早になる。
目指す頂上に何があるか、もちろん住職にもはっきりしたことは分からない。しかしこの山が昼と夜とで明らかに違う顔を持っていることは毎日観察していることなので分かっていた。
住職があの山を気にし始めたのはいつ頃からであろうか。子供の頃からだったことには間違いない。ひょっとして物心ついた頃からだったのではないかと思うほどである。
そういえば何度山に登った夢を見たことか。頂上を目指すのだが頂上に辿り着いたためしは一度もなかった。途中で夢が覚めたり、妖怪のようなものに追いかけられ逃げ帰ったこともあった。山に登るのはいつも夜である。満月が差し込む黄金に包まれた道を進んでいくが、それはまさしく夢で見た光景だった。しかし途中で目が覚める時、決まって目の前に広がる朝日が邪魔をするのである。
歩きにくい道を歩いているにも関わらず足の裏に違和感はなく、疲れを感じることもなく、まるで雲の上を歩いているようだ。子供の頃に見ていた夢そっくりの光景が繰り返される中、住職の気持ちは徐々に若返っていく。木々の間から差し込む黄金の光が住職の体を包み込み、気持ちばかりではなく、体も若返った気がするから不思議だ。
「おや」
予想はしていたが、目の前に光るシルバーの箱のようなものを見つけた時、思わず叫んでしまった。それは昼、境内からじっと山を見つめていた男が持っていたカバンだったのだ。
「やはり」
住職は一人頷き、ゆっくりとカバンを目指して進んでいく。するとどうだろう、目の前に閃光が広がったかと思うと反射的に顔を背けた住職だったが、それも予想した通りだった。しかしそれから先はまったく未知の世界で、何が起こるか分からない。
住職に緊張が走る。
土の中で黄金色に輝くものが蠢いていたが、それはまさしく何かの幼虫のようだった。気味の悪いその虫の近くでは、黄金が光輝いている。よく見るとその上を無数の虫が這いまわっている。その場から立ち去りたい思いを抑えじっと見ていると、虫の行動がある一定のパターンであることに気が付いた。
不規則に蠢いているように見えたその虫は、ゆっくりながら等間隔の距離を保ち、さながらアリの行進を思わせる。アリがそれなりの目的を持って行動するのと同様、この虫たちもある一定の目的に向かって突き進んでいるように見えて仕方がない。
「黄金を生む虫たち」
住職には彼らがとても貴重なものに思えた。
「和尚、今日はいつになく若々しいね」
寺を訪れる村人が口々にそう言うようになったのは、それからまもなくのことだった。まるで後光が差しているようだとまで言われるようになった住職は、一時村人の注目の的となった。
あれから五年が経った。山に近づくことのなかった住職が、山に入ろうとしている。しかし今まで本当に山に入ったことがなかったのだろうか。
何度となく見た夢、あれは本当に夢だったのか、自分でもよく分からない。そんな時決まって翌日草履に金箔がついているのは山へ入った証拠ではないかと思える。山が何かの目的で呼ぶのだろうが、決して頂上への記憶を残していないのは山に意思のようなものがあるからかも知れない。
奇しくもその日の夕方、空を血の色が覆った。降りそうで降ってこない雨、まさに五年前のあの日そのままである。血の色が漆黒の闇へと変わり始めると、黄金色に塗られた綺麗な満月が顔を出す。何度となく夢に見た光景であったが、住職にとってそれが近い将来必ず訪れると分かってのことであって、それが今日だっただけのことである。
山が光る。住職が微笑む。夢の中で見ている本人は別にいて、その時の自分の表情をしっかり捕らえることができるが、自分のこととはいえ、あまり気持ちのよいものではない。四十歳代に見えるその顔がさらに十歳は若く見え、ギラギラとした欲望に満ち溢れている。その顔に普段の気持ちの中にある落ち着きは見当たらず、風格のかけらもない。
「悪魔に魂を売った」
ホラー小説なら、さながらそんな表現がピッタリである。
今日は夢と違い、自分が正真正銘の主役だった。夢に見たあのギラギラした表情を今の自分がしているとはどうしても思えない。山が光るのを見ると本能的に微笑んでいるのだろうが、気持ちの中に欲望のようなものはなく、次第に落ち着きつつある自分を感じた。
山を見ながら石段を下りていくが、歩きにくい石段であるにもかかわらず、歩調は滑らかで足元を見ずとも躓かないのではないかと思える。自分の意志が働いているのではなく、本能による行動だからだろう。
──山に何か忘れてきたような気がする──
五年前に山に登ってから今日までずっと思ってきたことだった。それが夢となって現れよほど大切なものを忘れてきたのか、それが何か思い出せないため、夢の中で頂上にたどり着くことができなかったのだろう。
──ひょっとして売った魂を買戻しにでも行くのだろうか──
そんな思いが住職にはあった。山が光ること自体信じられない。それが果たして我々にとって良いことなのか悪いことなのか一体どっちなのだろう。白骨死体と山が光ることが関係あるのであれば決して良いこととは思えない。しかし住職は思う。それも人それぞれではないのかと・・・・・・。人間関係一つとっても相手によって種々の利害関係が発生するように、山に関わりを持った人それぞれの立場の違いと同様であろう。
石段を下りると、闇の中に延々と道が続いている。まわりに比べ白っぽい土質のため、おぼろげに浮かび上がって見えるが、続いているその先は紛れもなく苔坊主山である。
かなり前に登ったことがまるで前日だったことのように思い浮かぶのだ。今日は明らかにその時と違う気がしてきた。道幅が心なしか広く見える。そのせいだろうか、山が遠くに見えるのだ。しかし裏を返せば道が目の前に広がっているかのように見え、住職は一瞬自分の背が縮んだのではとさえ思った。
その証拠に道を歩いていて、偶然出会った村人の態度には信じがたいものがあった。
暗闇の中、ギョッという声が聞こえたかと思うと、腰を抜かしてブルブル震えている村人を見かけた。それはまるで妖怪か幽霊にでも出会ったかのごとくであり、昼間に見る愛想のよい穏やかな表情からとても想像できるものではなかった。
作品名:短編集3(過去作品) 作家名:森本晃次