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短編集3(過去作品)

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 律子さんのことをあまりよくは知らないが、たまに昔の話が会話の中にチラッと出て来たりすることがあった。多分、大学生の哲に合わせてその頃の自分を思い出して放しているからであろうが、学生時代の話が多い。元々しっかりしている律子さんなので、哲が大学生として考えていることは律子さんが高校時代に考え悩んでいたことかも知れない。話の中に出てくる高校生の律子さんを想像しながら、話に耳を傾けたものだった。
 しっかりしているとは言っても、どちらかというと純情タイプだった律子さんはまわりからはあまり目立たない存在だったようだ。学級委員をやっていたらしいが、それ以外はほとんど目立たず、えてしてこういう目立たないタイプで断ることのできない性格の人が、学級委員を押し付けられたりするのではあるまいか。学生時代を思い出していた哲は、そんな風に思えて仕方がない。
 律子さんは結婚が早かった。短大卒業後すぐに結婚したのだが、相手とは年が十歳近くも離れていて、新婚といってもなかなか話が合わないと言っていた。どうしても他人行儀なところが抜けず、気を遣ってくれているのだろうが却ってぎこちなくなり、なかなか会話になりにくいらしい。そこへ持ってきて元々静かな性格の律子さんの話相手は本だけだったこともあり、喫茶「ナーバス」に来て、テーブルで本を読むようになったのはそれからだった。それでも哲にだけと話をし、一旦口を開けば関を切ったように話に花が咲き、次々に話題の泉が沸いてくるのだという。
「ここは店の名前が気に入って、通うようになったのよ」
 いつかそう話していた。その時の自分の心境に何となくピッタリだったという。中に入ってみれば、本を読むには最高で、ちょうど買った本を心置きなく読める場所を探している時だった。家の中ではどうしても生活の臭いが漂ってきて落ち着けないのだろう。
 それは哲にもよく分かる。試験勉強も自分の部屋で静かにするよりも、図書館や喫茶店でやった方が捗る時がある。それに似た感覚なのかも知れない。
 店内にはいつもシンフォニーが奏でられていて、読書には最高の環境で、客がほとんどいない店内は、そのままシンフォニーホールの音響を楽しめる。
 一度哲は、なぜか律子さんが来る時、他に客がいないということを話題にしたことがあった。言った後でハッと思ったが、もう「あとの祭り」であった。さすがに律子さんもしおりもビクッとしていたが、すぐにいつもの表情に戻り、
「ここでは私の願った通りになるのよ」
と言って律子さんは笑って見せたが、ここまで徹底していると、笑いを思い出しただけで不気味なものを感じる。それを聞いた哲はしおりを反射的に見たが、表情を変えることなく頷くその心境は一体どんなであったろうか。
 そんな律子さんを、しおりは知らないと言う。どういうことだろう。
 哲は目を瞑った。目を瞑って瞼の奥に浮かんでくるはずの律子さんの顔を思い浮かべようとしたが、なぜか思い浮かばない。目を開けて、いつも座っているはずのテーブルに目をむけると、そこには向こうを向いて本を読んでいる律子さんのイメージが浮かんでくるのにである。
 一度、律子さんが変なことを言っていた。本当の私は大学時代に死んだのだと。律子さんの顔は笑っていたが、私にはどうしてもその言葉を無視することができなかった。
「ねえ、哲さん。律子さんというのは、どんな人なの」
 今まで自分のことを「哲さん」と呼んだことがなかったしおりが、どうしたことだろう。思わずしおりの顔を見詰めた。
「どんな人って言われても、ほらいつもそこで本を読んでいる人だよ」
 哲がテーブルを指差すも、しおりの表情は、はっきりとしない。思い出そうとしている様子もないし、最初からイメージ自体が湧いてこないのかも知れない。
 哲は指を差しながらも、もう一度律子さんのことを思い浮かべようと努力してみた。指し示した指をそのままに、指の先を見詰めている。最初指先に焦点を合せ、それをテーブルへと伸ばしていく。ボヤけていたものが次第にハッキリして行き、ズームアップされてくる。
 目の錯覚か、そこにはハッキリと律子さんの後ろ姿が見えた。ビックリして目を擦り、さらに見つめるが、ボヤけた焦点が合ってくるにつれ、テーブルが無人であることがハッキリしてくる。一瞬の錯覚だったが目を瞑ると、先ほどのようにハッキリと後ろ姿が見えている。
 カウンターの正面を向き、今度はいつも隣にいる時の律子さんを思い浮かべようとさらに目を瞑った。するとそうだろう。哲の知らない世界がそこに広がっているではないか。
 目の前を紙のようなものがヒラヒラと飛んでいる。それが蝶だと気が付くまでに少し時間が係ったのだが、そのきっかけとなったのが、あたりに漂っている甘い蜜のような春の香りだというのは面白いことだ。気が付くとあたりは黄色に包まれていて、蝶がその上を蜜を求め、行ったり来たりしている。仄かな暖かみを感じ、しばしの安らぎを覚えた。
 しかし次の瞬間、体がかなしばりに掛かったようになってしまった。景色は一変し、暗い部屋にいる。明るいところから暗い部屋に入ったので、ほとんど様子が分からない。しかしそこが部屋であることを感じたのは、目の前に置かれた卓袱台のような丸テーブルが畳の上に乗っていたからである。その上には褐色の薬の壜が置いてあり、それを取らんとする震えた手が暗闇から侵入してくると、思わず声にならない声を発していた。
 哲の差遣だ「いけない」という言葉が相手には聞こえていないのか、一気に壜を暗闇へと奪い去った。いや、その時哲にはその手の動きの真相が分かっていた。一旦決めた覚悟を鈍らせるのを嫌がっていたに違いない。わざと聞こえないフリをしているのかも知れない。
 震えた手にも関わらず、その動きにまったくの無駄がなく、あっという間に中から出された錠剤が手のひらに包まれたかと思うと、口元があるであろう闇の中へと消えて行く。いつの間にか反対の手には水の入ったコップが握られていてそれも闇へと消えた。ゴクンと喉が鳴ったかと思うとウーンっといううめき声が聞こえ、それが腹に響いている。飛び出して行きたい衝動とは裏腹に、かなしばりが容赦なく哲を襲う。人が苦しむ様を想像しながら過ごす時間の何と長いことか。
「どうしたの、哲さん」
 我に返り目を覚ますと、そこには不安そうに立っているしおりがいる。整えようとすればするほど苦しさを覚え、体中にへばりついた玉のような汗が流れ出し、気持ち悪い。
「いや、何でもないんだ」
 落ち着きを取り戻そうと深呼吸をする哲を見ながらしおりが言う。
「急に目を瞑ったかと思うと、みるみる顔が真っ赤になるんですもの。ビックリしちゃったわ」
 それに答えずじっと考えている哲を見詰め、しおりはさらに続ける。
「でも、うわ言のように何かを呟いていたわね」
「何ってだい?」
「あのノート、どこへ行ったんだってね」
作品名:短編集3(過去作品) 作家名:森本晃次