短編集3(過去作品)
閉じている目が急に赤みを帯びて見え、まるで直射日光が当たっているかのように見える。恐る恐る目を開けてみると白い閃光が当たっている。それは紛れもない真っ白で、これほどの純白を未だ見たことがない。これがあの世というものか?
しかし、それは早合点だった。無意識に顔を覆っていた手のひらを広げると、そこに蝶が飛んでいるのが見えた。微かながら匂いを感じる。蝶の出現によってそれが花の匂いであると分かると、まわりにあるのは黄色い菜の花に違いないと思った。体を動かすことはできない。頭も動かない。だがなぜか肩から先にある腕は動いたのだ。毒の回りがそこだけ遅いのだと感じ、頭はなぜか冷静だ。
冷静だというより、今までのわだかまりや、理不尽に思えて来たことが頭の中から消え、純粋なものだけが残ったのかも知れない。とりあえず腕だけでも動くのだから、じたばたと動かしてみた。湿り気を帯びた菜の花に手が触れる。まるで私の死を悲しんでくれているみたいで、その一本一本がいとおしい。
━━痛い━━
本当にそう感じたかは定かでないが、角のある何か硬いものに触れた。触ってみると何か本のようなものである。グッと力をいれてたぐり寄せる。意外と重たく感じたのは、体に力が入らないからだろうか。それでも力一杯持ち上げると、目の前まで持って来た。
━━あのノート、どうしたんだろう━━
どこからか風に乗ってそんな声が聞こえて来たが、その時はすでに目の前は真っ白い閃光にすべてが包まれていた。
━━ああっ、いよいよか━━
と思ったが、あの世はまだ私が入ることを許してはくれないようだ。
本を読みながらコーヒーを飲んでいる私の後ろで、カウンターに座っている三人が、何やら夢について話している。内容までははっきり聞こえないが、その時私の頭の中に浮かんだのが、先ほどの菜の花の風景だった。コーヒーの香りとともに菜の花の匂いが漂ってきて、そうだ、その時も「あのノート、どうしたんだろう」と思ったのだ。
死について躊躇いがなかったといえば嘘になるが、その一番の蟠りが「あのノート、どうしたんだろう」だったことに今更ながら気が付いた。しかし、それはもうどうにもならないことだ。次第に薄れていく意識の中で、私の体は水の中に浸かっていて、その中に溶けていくかのような感覚だった。痛みも苦しみも感じない。生まれてくる時の母親の用水に戻っていくのだ。
━━あれが人間の原点なのかも知れない━━
そう思うと、死に対して恐怖はなくなり、溶けていく感覚が体を貫いた。あの世への扉が開かれた瞬間である。
気持ちが躁状態から鬱状態へと移り変わろうとする時、本人には分かるもののようだ。少なくとも哲にはそれが分かっている。いつなのかと言われると答えようがないが、お腹がムズムズし始め、無意識に体の震えを感じる時が、その時のようである。
赤いものが青く見え、青いものが赤く見える。そう思った時はもう遅い。思わなければよかったといつも思い、やがてやって来るはずのお腹のムズムズを黙って待っているしかない。
朝、起きてからすぐに出来上がるはずのその日の計画も、考える気さえ起こらず、ただ本能のまま動く。根拠に基づかない計画なので、計画とも言えない。
一刻も早く家を出たいと思い、行き着いた先はやはり喫茶「ナーバス」であった。扉を開けると、そこにはいつもと何ら変らぬ笑顔のしおりがいて、無意識の哲も微笑み返す。無意識な笑顔ほどよい顔はないと思っている哲にとって、しおりは鬱状態であってもいつもと同じに見えるのだ。
いくら鬱状態で赤が青に見えようとも、それはすべてに対してではない。しおりのようにまったく同じに見える人もいるのだが、次の鬱状態がやって来た時、前回と同じ人間とは限らないところが不思議なのだ。
鬱状態というのは、突然やって来る。もちろん何かのストレスの積み重ねなのかも知れないが、昨日まで楽しかったことが急に辛くなる。楽しかっただけに辛さも倍増する。
いつもだったらこの時間、いつもいるはずの主婦の姿が今日はなかった。名前は確か篠原律子さんと言ったか。人懐っこい性格から、主婦であることを忘れ話し込んでしまうことが多いと言っていたが、話していてこちらも主婦であることを忘れてしまうが、それも仕方のないことに思える。
彼女はいつも哲より早く来ている。ひょっとして開店時間からいるのではないかと思うほどで、コーヒーを飲みながら奥のテーブルで本を読んでいる。朝日に照らされた彼女の
目が栗色に光っていて、それが妙に色っぽい。
私が扉を開け中に入ると、それを待っていたかのように本に栞を挟み、コーヒーを持ってカウンターに移動してくる。
律子さんがいることは、店に入る前から必ず予感がある。今日は彼女がいるはずだから「ナーバス」へ行こうと思う日も少なくなく、それも他に客がいないから思えることであって、不思議なほど、彼女が来ている時は他に客はいない。
そういえば、店に来る客のパターンは、なぜか決まっていた。AさんとBさんがいる時はCさんがいない、Cさんがいる時はなぜかAさんBさんはいないのだ。別に示し合わせているわけではないだろう。AさんとBさんがいつも話をしている仲間とは限らない。そう考えると哲は、喫茶「ナーバス」の一部しか知らないことになるだろう。
いつか律子さんも、以前私が来ることの予感があると言っていた。笑いながらこちらも受け流したが、まんざらでもない。そう言った時の律子さんがしているいつもの香水が、どこからともなく風に乗ってプーンと匂った。マイルドなその香りに大人の女を感じたことを今更ながら思い出す。
今日も店内には誰もいない。哲の頭の中には律子さんの存在が大きかった。店に客がいないのは予想通りだが、律子さんがいないのは大きなショックだった。
「あれ、今日は律子さんがいないですね」
しおりにそう聞いてみる。しかししおりからの返事は哲がまったく予想していないものだった。
「えっ、律子さんって誰ですか?」
冗談ではない、しおりの表情は真剣そのもので、本当に知らないようである。
「忘れたんですか? ほら、私といつもここで話をしている奥さんですよ。まあ、奥さんと言ってもあまり家庭的なことを話題に人じゃあなかったですけどね」
律子さんはどちらかというと聞き上手だ。まず相手の話をうまいタイミングで相槌を打ちながら引き出すのがうまく、ある程度聞いてから自分の意見を言う。人の話の腰を折るようなことはなく、決して焦らず会話を進行する。話相手として、これ以上の相手はいないだろう。
しかし彼女の意見はいつも的確だ。もちろん相手の話腰を折らず最後まで聞いての意見なので、まず的外れな答えは返ってこない。
「律子さんねえ」
しおりはずっと考えている。
作品名:短編集3(過去作品) 作家名:森本晃次