短編集3(過去作品)
「どうして夢で見た景色だと分かったんですか?」
「最初はなかなか分からなかったんです。前に登ったことのある山に似ているのかと思ったんですが、見たのはつい最近だった気がしたんです。でも本当に意識したのは、幼稚園の生徒の帽子の黄色い色が頭の中にあったからです。その日も同じように幼稚園生とすれ違って黄色い色を見ましたから……」
「目が覚めた瞬間のことが一番強く頭に残っているのかも知れませんよ」
「それが不思議なんですよ。普通考えればそうなんだけど、夢のことを思い出そうとすると、目が覚める瞬間のことは、意外と記憶が薄いんです。どちらかというと途中の方が強い印象で残っている。でもどこかで見たことあるとか聞いたことがあるという思いは、目が覚める時に見た光景の方が強いんです」
庄司さんの言う通りだ。哲にしても、考えてみれば同じような思いを何度かしたことがある。庄司さんの話を菊間でもなく、哲の目はその通りだと無言で訴えている。
そういえば哲は目が覚める瞬間に、何かをフラッと考えているようだ。たいしたことではないような気がするのだが、どうかしたタイミングで思い出す時がある。
(あの時のノート、どうしたんだろう)
頭が出した答えである。ノート? 何のノートのことだろう。あの時とはいつのことだろう。何のことだかさっぱり分からないが、頭の中で警鐘を繰り返している。
私がこんな気持ちになったのはいつからであろうか。何不自由なく平凡に暮らして来た自分の人生が音を立てて消えていく。私の人生って一帯なんだったんだろう。これからのことなど考えられず、ここでこの場でそれを終わらせようと考えているが、それがどういうことなのか分かっているくせに、まるで他人事のように思えてしまう。
目の前に置かれた薬の壜、一体これをどうやって手に入れたのか、思い出すだけでも煩わしい。私の気持ちを察してか、こんな時だけ私の思い通り世の中が動いてくれている。天からの授かりものなのだ。
今まで、世の中が私の思い通りになったことなどなかったのに……。
原因は何だろう。世の中うまく行かないのを苦にして? いやそうではない。ある程度、考えられる最良の環境を、自分が考えられる範囲のもので与えてくれた。いわゆる無難な人生を歩み、悩みも苦しみもそれほどのことはなかった。人に言わせれば、甘えていると言うかも知れない。
人からはそれなりに好感を持たれていただろう。これは贔屓目に見るからかも知れないが、少なくとも自分は満足していた。今も満足しているのだ。人といる時は嬉しかった。必要以上のリアクションも自分の中から自然に出て来たもので、決して大袈裟なものではない。
だが今まで自分の思い通りに行っていたはずの世の中が、急に違うものに見えて来た。今まで青に見えていた色が、赤く見えるようになってしまったといったそんな感じである。
同じものであっても、急に違うものに見えてしまう。
しかし頭の中で赤は赤として理解しているだけに、自分ではどうしようもない。そのことに気付くまでどれくらい掛かったであろうか。元々、心の奥にくすぶっていたものが少しずつ頭角を表わしてきたような気がする。どうしても突然出て来たもののようには思えないのだ。
何かきっかけがあったに違いない。こんな気持ちにいきなりなるなど考えられないからだ。しかしそれが何だったか分からない。必死に何かを考え様としていた。悪い方へ向かおうとする頭を何とか切り替えようと考えれば考えるほど虚しく感じ、感じること自体が無駄な努力であった。無駄な努力をするのが嫌ではない。何かを考えること自体が嫌になっていた。
━━ここを乗り切れば、後にきっと何かいいことが待っている━━
ブルーになった時、私はいつもこのように考えていた。すると必ず出口は見つかり、それなりにいいこともあった。それも「考える」ことから始まるのであり、考える頭が私を「正常」へと導いてくれる。
じゃあ、正常とは何なのか? ドロ沼に嵌まった原因はそんなことだったのかも知れない。今まで楽しいと思っていたことがそうでもなくなり、辛いと思っていたことすら、それほど感じなくなった。その内に考えることすら嫌になってくるというものではないだろうか。
どちらかというと私は、未来について真剣に考えている一人だと思っていた。何とか平凡に過ごしては来た私だったが、テレビのニュースや他人の話などを耳にするたび、まわりの環境の悪さからから不幸に陥れられた人々のことを、どうしても他人事のようにしか思えなかった。心の底で自分に関係ないということと思うことで密かな幸福感を味わっているのかも知れない。
自分が躁鬱症であると感じたのは、最近のことである。それを知らなかったことが幸福だったのか不幸だったのかを考えていくうちに、今までの他人事が本当に他人事ではなくなっていた。交際していた人とも、あらぬ中傷で信じられなくなった。
しかし今までは、時間というものが解決してくれ、私の頭は「正常」に戻った。ひょっとしてその「幸」を呼び込んだのも正常に戻したいという気持ちと、この後にはきっといいことが待っているという思いが功を奏したからかもしれない。
「正常」に戻った私の頭は、最初感じていた「正常」とはいささか違うものとなっていた。
この間読んだSFの本が頭に浮かぶ。
もし、未来が何かの原因で狂ってしまったのなら、未来を直してもどうにもならない。その原因となった本当の地点を探り、そこを直さない限り、本当に進むべき未来を正常に戻す事はできないという。狂ってしまった歴史にも、その間作られた間違った歴史が形成されているかららしい。
私が「正常」ということに疑問を感じたのはそのことだった。何が正しく間違いなのか、それを分からずして何を持って「正常」といえるのだろうか。今ここで考えることさえ、狂った上で成り立っている紛い物の「正常」に思えてくる。考えることが嫌になるのも当然ではないか。
しかしもういい、私は決めた。考えることが嫌になった以上、生きていくことの意味を失ったも同然だ。ここで人生を終わらせるのも、死に対して一番恐怖心の湧かない今が一番いいかも知れない。人間はいつかは死ぬのだ。遺書などを書く気もまったくない。誰かに言い残すことすら何もない。色々な人が死について考え、イメージして来たものを、今正に私が見てやろうというのだ。ワクワクして体が震えて来た。
薬を飲んでからでもこれだけのことが考えられるほど、頭の中がフル回転していた。。考えることをあれほど嫌っていた私が信じられないことである。
体が変にムズムズしてきた。何かを考えようとする体の底から込み上げてくるのだ。もう何かを考えてはいけないということだろう。ベッドに横になり、カッと見開いた目でじっと天井を眺めていたが、静かに目を閉じた。
喉の奥が熱い。
━━いよいよだ━━
体の痙攣を感じた。その時、私の意思とは関係なく、頭が動き始めた。頭だけがまるで自分の体の一部ではないかのように清々しい気分になっている。忌々しさを感じた。
作品名:短編集3(過去作品) 作家名:森本晃次