短編集3(過去作品)
時折吹く風は、さすがにまだ冷たかったが、それはそれで気持ちが良い。少し喉が渇いてきたと思い始めたちょうどその時、目の前に喫茶店を見つけたのである.壁から何からすべて白ずくめで塗りこめられた建物は、西洋建築の洒落た造りをしており、強い日差しに照らされ、まるで幻かと思えるほどの輝きを見せていた。
中に入ると思ったより小じんまりとしていたが、客も四、五人がそれぞれ離れた席で雑誌を読んでいるといった程度で、気にすることもなさそうだ。
その時カウンターの中から「いらっしゃいませ」と声を掛けてくれた女の顔が、今この場で浮かんだのである。
その時、彼女とどんな話をしたが、それから彼女に対してどんな思いを抱いたかなどは、
いまさら関係ない。というよりも、はっきり覚えていないといった方が正解かも知れない。ただ彼女のニコニコした表情が写真を見ているように頭に浮かんだだけなのである。
━━彼女とは、初対面じゃないような気がする━━
確かに私はそこまで考えたはずである。しかし、それが背中から何かに貫かれたような激痛が走る前であったかどうかは断言できない。はっきりしていることは、それからの私の意識は、私の記憶ではなくなっていたということである。
「しおりちゃん、コーヒーもう一杯」
「はい」
K大学に通う中村哲は、いつものように自主休講と称し、一人お気に入りの喫茶店のカウンターに座り、コーヒーを飲んでいた。もちろんお気に入りの理由として、店でバイトしているしおりの存在が大きいことは、言わずと知れていた。
哲の通う大学からは、ここまでそれほど近いとは言えない。もちろん大学の近くにも学生歓迎の喫茶店が数多くあり、そのほとんどに行ったことがあるのだが、一人になりたい時に行くところはここぐらいか。わざわざここまで来る本当の理由は、仲間から離れ、一人になりたいというところにあるのだ。
ここの常連となって、しおりと話すようになってから、常連客とも話すようになった。それがサラリーマンであったり、主婦であったりで、学生間とはまた違ったコミュニケーションも味わいがあっていいものである。
喫茶店の名前は変っていて、「ナーバス」という。言われてみれば哲が始めて「ナーバス」にやってきたのは、神経質な性格が災いして、あまり他人と話したくない時期、フラフラと散歩に出た時だったというのは、ただの偶然の一致だろうか? しおりにかつて聞いたことがある。
「変った店の名だね」
「そうなの、でも私も神経質だから、ちょうどいいけどね」
「ここの主人もそうなのかな?」
一呼吸あいて、
「そうかもね」
そこで会話は途切れたが、そういえば店主の顔というのを見たことがない。私が来た時必ず店にはしおりがいるだけである。私にとって一番有り難いことなので、なるべくそれ以上考えないようにしていたが店の名前を「ナーバス」とつけるくらいなので、かなり変った人物なのだろう。
しおりと二人だけの有り難い時間も、そう長くは続かなかった。扉を開けて入って来たのは、常連の一人である山口さんだった。自らを小説家と称し、その恰好も顎には髭を貯え、ベレー帽を被ってとそれらしく、いつも隅の方でコツコツ執筆をしている。その日も隅の席に腰を下ろしカバンを置いたが、いつもと同じなのはそこまでで、カウンターに寄って来たかと思うと哲の隣に座った。
これには、哲としおりは顔を見合わせ驚いた。
「どうしたんですか、山口さん」
洗物の手を止め、しおりが訊ねる。
「実は、ここに来るまでに住宅地を抜けてくるんだが、そこで昨夜殺人事件があったらしいんだ」
「えっ」
二人は同時に驚いた。山口さんは二人のリアクションを見て間髪入れずに続けた。
「どうやら、深夜帰宅中のサラリーマンが襲われたらしいんだけど、背中からナイフで一撃されたのが元で即死だったんだと。最近、このあたりに変質者や通り魔が出没するといわれているけど、ついに殺人事件にまで繋がるとは思ってもみませんでしたけどね」
「まあ、恐いわ」
しおりのリアクションは大袈裟ではあったが、哲も声にならないだけで、相当なショックを受けていた。真っ暗な深夜の住宅地の風景が目に浮かび、気のせいか、鉄分を含んだような血の匂いが鼻を突いた。遠くで犬の遠吠えが聞こえ、謂れのない震えが全身を包んだ。最近、そんな光景の中に身を置いているような気がして、その思いは段々と強くなってくる。 山口さんはこのエピソードを自分の作品に異化したいと執筆意欲が満々であったが、何か聞いてはいけない話を聞いてしまった気がする哲は、またしても神経質な性格が災いしてか、そのことが頭から離れなくなっていった。
哲の頭の中を色々なことが浮かんでは消える。
人は自分の死ぬ瞬間が分かるというが、本当であろうか? 以前、交通事故に遭って重傷を負ったことがあるが、そういえばその時、まるで石を削った時のような匂いを嗅いだような気がする。死を目前にした人もそんな気配を感じているかも知れない。
さらにこうも考える。
昔から親しい人が死んだりする時、不吉の前兆として「虫の知らせ」なるものがあるというが、どうなんだろう。下駄の鼻緒が切れたり、絶対に切れないはずの綱が切れたり、そんな時昔の人は「虫の知らせ」といったらしいが、それは死を目前にした人から親しい人への精一杯の信号なのかも知れない。そこに本人の意思が働いているかどうかということは、はなはだ疑問ではあるが……。
またそれに同調してのことだが、
死を目前にした人は、頭の中に昔の思い出が走馬灯のように蘇るという。もし自分がその時を迎えて、思い出すのはどういうことだろうか。
出口のない疑問が次から次ぎに浮かんでくるのは、哲の頭がナーバスになっている証拠だった。自分の世界に入ってしまい、まわりが見えてこない。見えているのにそれが頭に回って意識として働いていないと言った方が正しいかも知れないが、これも一種の夢のようなものだと自分なりに解釈していた。
「正夢というのは、あるみたいだね」
奥のテーブルに座り、無関心を装い、山口さんの話などまったく聞いていなかったと思っていた庄司さんが、いつのまにかカウンターに移動していた。庄司さんはまだ四十代前半だが、今まで多種多様な職を経験したらしく、話し始めると時間の感覚も忘れるくらいに話し込んでしまう。内容もさすがに豊富で聞いている方も、時間の感覚が麻痺してしまうほどである。
最近は定職に就けず、アルバイトでその日の生計を立てていえうらしいが、喫茶「ナーバス」というところ、変った人に常連が多いのも、その特徴の一つである。
「何か、そういうものを見たんですか?」
「この間のことなんですが、山に登った夢を見たんですよ。ちょうど遠足の時期だったというのが頭の中にあるのか、黄色い帽子を被った幼稚園の生徒に出くわしたんです。けど山の上に登った時はまわりに誰もおらず、一人独占した気持ちになって、ビール一杯を飲んだんです。もちろん始めて見る景色の素晴らしさにしばし見とれていたら目が覚めたんですが、この間ひょんなことから登った山がどこかで見た風景だとずっと考えていたら、その山だったんですよね」
作品名:短編集3(過去作品) 作家名:森本晃次