短編集3(過去作品)
うつ病の中の記憶
うつ病の中の記憶
生暖かく風の強い夜というのは、なんと気持ちの悪いものだろうか。
さっきまで明るかったかと思えば、闇が幕を引くようにやってくる。強い風により押されるように移動してくる厚い雲があたりを明るく照らしていた満月を覆い隠してしまったのだ。くっきりとした立体感を表すかのように伸びていた影もすっかり闇に隠れてしまい、月を隠した雲だけが、移動する銀幕を後ろから見ているかのように、薄く大きく広がった円を映し出している。
湿気が多いと音がこもって聞こえるのか、靴のコツコツという音が鈍く響いている。革靴の響く音は嫌いではないが、こもって聞こえるのは耳障りでしかない。
どこからか犬の遠吠えが聞こえる。一匹が吠えると連鎖反応を起こしてか、いたるところからこだまして聞こえてくる。革靴の音が犬を刺激したのだろう。
ここは閑静な住宅地。私の家は、駅を降りてから少し田畑を通り抜けなければならず、それでも徒歩で二十分ほどのところなので文句も言えない。私が家を買った当時、まだそれほどまわりに家もなく発展途上であったが、あれよあれよという間に開発が進み、駅前などかなり賑やかになってきた。途中通りすぎる田畑だけが、当時の面影を唯一とどめているのである。
住宅地に入ると、途端に坂道となる。それほど急ではないが、同じような家が立ち並ぶ中、果てしなく続いているようで、歩いていて今どこにいるのか分からなくなり、思わず振り向いてしまうことがある。えてしてそんな時はあまり進んでおらずがっかりさせられてしまう。
最近飲み事が続いたせいか、いつもこの時間になる。時計を見れば日付が変わっている。ほとんどの家から明かりはなく、頼りは月明かりと申し訳程度の街灯だけである。
最終電車に乗り込んだ時かなりいた人もほとんど途中で降りてしまい、この駅で降りるのは私一人である。駅はすでに無人となっていて、夜道を同伴するのは自分の影だけであった。そんな影も今日のような風の強い日は消えたり現れたりと気紛れだ。
最初のころは起きて待っていた女房も、今頃は気持ち良く寝息を立てていることだろう。さすがに毎晩アルコールの匂いをプンプンさせていては、呆れられても仕方がない。とりあえず、お茶漬けの用意をしてくれているだけでも有り難いと思うべきか。食卓に並んだ漬物と、あとはお湯を入れるだけの茶碗が目に浮かび、心なしか、足早になっていることに気付く。
それからは寝息を立てている女房の姿が頭から離れない。
女房とは見合い結婚だった。どうしてもと勧めてくれる人がいて、まだ十代だったのであまり乗り気ではなかったが、いつの間にか話がトントン拍子に進み、気がつけば結婚していた。乗り気ではなかったといいながら、まんざらでもなかったのかも知れない。
痒いよころに手が届く、彼女はそんな女性だった。元々が甘えん坊な私に対し、、母性本能が強い女性の出現だったに違いない。自分のすべてを分かってくれるので、意思表示はおまけのようなものだった。そのくせ、会話は人一倍あったのは今から考えてもベストな仲だった証拠である。他愛もない話がさぞや多かったことだろう。
しかし時々恐くもなった。何もかも見透かされているということは、実行しないまでも願望として浮かんだ邪な心を見透かされ、余計な猜疑心を植え付けたりしないだろうか。猜疑心とまで行かないまでも、そのことで気を揉ませるのも心苦しい。今のところ、そんなこともなさそうなので安心しているが、ひょっとして私の知らないところで少しずつそんな兆候が現れているのかも知れない。
どちらにしても取り越し苦労は体に毒だ。あまりくよくよ考えることをしたくない私は頭を切り替えた。
しかし、どうしても頭の中から女のことが消えないようで、思い出のスロットマシンは学生時代に付き合っていた女性のところで止まったみたいである。
交換日記から始まった絵に描いたような青春だった。ノートの字を見るたび、彼女の顔を思い出す。へたくそな文章に対し、丁寧に返事を返してくれるのが印象的だった。結論だけの羅列に等しい私の文章に対し、彼女の文章はボキャブラリーも豊富で、何よりも想像力が豊かになる文章だった。
彼女と手を繋ぐまで半年は掛かったであろうか。それからキス……。しかしここまで来ると彼女に変化がおとずれた。私を避けるようになったのだ。だが当時の私に理由など分かるはずもなく、最後は強引に迫り、破局を迎えたのである。自殺したとも聞いたが、本当であろうか?
━━あの時のノート、どうしたんだろう━━
彼女との思い出といよりも、こっちの方が頭の中でいっぱいだ。
気がつくと、だいぶ家の近くまで帰ってきていた。その時、名にかの視線を感じたのは、気のせいだったであろうか。ノートのことを考えた瞬間、私の意志とは関係なく、何かドキッとしたものを感じた。あと二、三回角を曲がれば、そこは温かい我が家である。
「コツッコツッ」
相変わらず革靴の音が響いている。
しかし、さっきよりもこだまの音が激しくなっているような気がした。思わず後ろを振り返る。ちょうど雲に月が隠れてしまった時間帯で、あたりは真っ暗だ。立ち止まっているにも関わらず、革靴の音は近づいてくる。
「誰だ」
声が震えている。二、三歩来た道を戻り、柱や壁の影を集中して見つめた。
「ビューッ」
風が吹きぬける音が聞こえ、暗いながらも塵が舞っているのが見えるだけだ。気を取り直して、もう一度前進をはじめた。今度は少し歩調を速めてみた。
歩き始めてすぐ、今度は二、三日前だったろうか、フラッと立ち寄った喫茶店のことが頭に浮かんだ。
その日の私は、明らかに鬱状態だった。躁鬱症の自覚のある私は、躁と鬱とが定期的にやってくる。どんなくだらないことでも楽しくて仕方ない躁状態を過ぎて、間髪入れずにやってくる鬱には本当に悩まされている。いつものことだと思っても、どうしようもない自分が腹立たしい。
そんな時は人と話すことはおろか、他人に近づくことさえ疎ましい。腹の底から得たいの知れないムズムズしたものを感じ、ひどいときは吐き気をも感じる。
その日も一人で歩いていた。家にいてすることがなく、テレビを見ても面白くない。女房もそのことはよく分かっているようで、何も言わずショッピングに出かけた。私が軽い気持ちで散歩に出たのは昼過ぎからであった。
私の心の内を知ってか知らずか、腹が立つほど天気が良く、ポカポカ陽気に公園は一杯だ。そんな中に入っていく気はもちろんなく、川沿いの土手をゆっくりと散歩することにした。普段行ったこともないところを歩くのもいいかも知れないと、駅までと反対の道をただひたすら歩いていた。
こんな日は心地良い汗を掻いたくらいの程よい疲れを感じるのが一番いいかも知れない。学生時代、陸上をやっていた頃から程よい疲れや体の張りが鬱病いんは最高の薬だった。
作品名:短編集3(過去作品) 作家名:森本晃次