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【真説】天国と地獄

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「誰にも信用してもらえないことを、どのように興味を持たせることができるか」
 ということがテーマだった。
 だから、進藤には高山の書いた小説の意味が分かっていた。
 しかし、高山が進藤の夢の共有の相手だというわけではない。もしろ、違うからこそ分かるということもあるというもので、もし、高山が進藤と同じ夢を見ているとすれば、高山にも進藤の気持ちが分かるであろう。
 そうなれば、高山は夢で共有した内容を自分の作品として発表しようとは思わないはずだ。
 夢の世界で見たことは、現実の世界で感じているような単純なものではない。同じ夢を見ながら、相手が何を感じているのかが分かるからだ。それは相手が自分と違う性格であることを分かった上で分かるのだから、感じていることは違って当たり前だと思っているはずだ。
 高山と進藤が同じ夢で共有した内容を小説にしようとするならば、違う作品に仕上がることだろう。読者が見て、
「これはどちらかが盗作したのでは?」
 という発想には決してならない。そう感じることができる人がいるとすれば、その人も夢を共有していないといけないからだ。
 共有しているとはいえ、それは違う世界でのこと、立場が違えば、現実世界でそれを表現しても、同じものにはならないのだ。
――それなのに、どうして高山が作品にしようとしないと思うのか?
 それは、
――他の人から何と思われようともかまわないが、夢を共有している進藤本人に、自分の書いた小説が、共有している夢の内容であるということを知られるのが一番辛いと思うだろう――
 と、高山が考えているからに違いないと思ったからだ。
 お互いに誰かと夢の共有ができていると思っている二人は、実際には夢を共有することはありえない。夢を共有していることを知っている人は、自分から夢を共有する相手を選べないからだ。つまりは、分かっているもの同士は、まるで磁石の同極のように、反発しあうものであった。
 そのことに先に気づいたのは、高山だった。進藤は深いところまで夢の共有を感じていたため、浅いところでの感覚はマヒしていた。まだまだ高山は浅いところで夢の共有を感じている。それは、自由な発想をもたらすことのできるものだった。
 高山が天国と地獄の夢を見たのはその頃だった。誰かと夢の共有をしているというのに、内容が天国と地獄、一体誰が、そんな発想を抱いていたというのだろう? 今すぐに分かる必要はない。永遠のテーマであってもいい。その方が、目が覚めて覚えている夢に広がりを持たせることができるというものである。
 その夢を見る前の朝、目覚めはあまりよくなかった。元々、その日は執筆を休むつもりだったので、外出するつもりだった。目覚めがよくなかったからと言って、別に体調が悪かったわけでも、夢見が悪かったわけでもない。最近ではあまり感じたことのなかった欝状態の兆しがほんの少しあっただけで、目が覚めるにしたがって、次第に欝状態から解消されていくのを感じた。
――気のせいだったんだろうか?
 高山は、毎日執筆しているわけではない。一週間に二日ほど、自分の都合のいいところで休むことにしている。急遽気分が悪くなることもあって、いきなりその日、執筆する気にはならない時もあったが、それほど気分にムラがある方ではないので、予定通り進むことの方が多かった。
 ただ、ここ最近は、童話の執筆に疑問を感じ始めるようになると、執筆意欲がだいぶ失せてくるようになった。
――僕は、どうして童話を書こうと思ったんだろう?
 ここから疑問が始まったのだ。
 童話の新人賞に応募し、入賞したことで、今の童話作家としての地位がある。誰が見ても順風満帆の童話作家人生を歩んでいるように見えるのだろうが、どうして童話を書こうと思ったのかということを考えてしまったことで、急に自分が分からなくなってしまっていた。
 今まで自分に疑問を持ったことがないわけではなかったが、一度疑問を持つと、弊害が起こってしまうなど、考えたこともなかった。順風満帆という状況にいながら、その言葉を考えたこともなかった自分が、どれほど見えていなかったのかということに気が付いたのだ。
――一度自分に疑問を持つと、過去の自分を思い出そうとしても思い出せない部分がある――
 ということに気が付いた。
 そもそも、過去の自分を振り返ってみようなどということを考えたこともなかったような気がする。少なくとも童話作家になってからは、過去の自分を顧みたことはなかった。それまでの自分を思い出そうとしても思い出せないのだから、過去を顧みようと思ったかどうかなど、分かるはずもなかった。
――今よりも、子供の頃の方が、いっぱい夢を見ていたような気がするな――
 と感じるのは、欝状態に陥った時だった。
 欝状態に陥るようになったのは、童話作家として名声を得るようになってからだというのは皮肉なことなのだろうか? ちょうどその頃、目が覚めてから、
――何かの夢を見ていたような気がする――
 と感じることが多くなった。
 覚えている夢がいつも怖い夢ばかりだったので、最初は夢を見ることを怖がっていたのだが、よくよく考えてみると、目が覚めるにしたがって、忘れていく夢も存在することに気が付いた。
――忘れたくないのに――
 と感じる夢で、覚えているのが怖い夢ばかりだというのを、皮肉に感じるようになっていた。
 ただ、目が覚めるにしたがって忘れてしまう夢の中で、子供の頃にも同じような思いをしたことを思い出したような気がした。夢の中に出てきた自分はまだ小学生で、怖い夢を見たことを忘れてしまいたいと思いながら、目が覚めていく感覚だったのだ。
 子供の頃のことを思い出すとすれば、それは夢でしかないと思うようになっていた。だから、最近は見た夢を忘れたくないと思うようになっていて、それが怖い夢でもいいような気がしていたのだ。そんな時に見た夢が、天国と地獄の夢だったのだ。
 あれは、神社の奥に友達と入り込んだ時のことだった。
 どうして、神社の奥に友達と入り込んでしまったのか分からなかったが、そこで見た大きな絵が印象的だった。まさに天国と地獄の絵だったのだが、子供の自分には、それが天国と地獄の絵だということに気づかなかった。教えてくれたのは、神主さんだった。
 その部屋は、結構広かったようだ。しかし、子供の高山から見ても、それほど広く感じなかったのは、天井が高かったことと、天井に近いところに、大きな絵が何枚も架けられていて、上から下を見下ろしている感覚に襲われたからだった。
「ほれ、ここに乗っているのが、天国だよ」
 と言って指差した先に架けられた絵の、最初に感じたのは大きな池だった。
 池のまわりには、蓮の花が咲いていた。もちろん、子供の頃にそれが蓮の花だなどと分かったわけではなく、
「天国というところは蓮の花が咲いている池があるんだ」
 というのを、学校で習ったからだった。
 それを教えられたのは、国語の授業の時だった。
 教科書に載っていた芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品。教科書には挿絵が載っていて、天国の蓮の池のほとりに、お釈迦様が佇んでいるものだった。
作品名:【真説】天国と地獄 作家名:森本晃次