【真説】天国と地獄
「高山先生の今の作風は、何かホラーっぽさが感じられるんですが、それを感じさせないように書いているように思えます。一般の読者として見ている分には、さほど変化は感じられないんですが、編集者の目で見ると、ホラーっぽさを感じてしまう。きっと、疑ってみると、違う角度から見えてくるような高度な書き方をしているように思えてならないんですよ」
これが三雲の高山の作品に対しての分析だった。
「どうして、そう思うんですか?」
「僕が今担当している綿貫先生の作風も似たところがあるんです。僕は最初から綿貫先生の作品の一読者として見ていたところもあったので、編集者としての目で見た作品と、どこか違って感じられるような気がしていたんですが、今の高山先生の作風を見て、最初にこの作風を行っていたのが綿貫先生だって気が付いたんです」
「じゃあ、高山先生の作品を読んで、綿貫先生の作法に気が付いたというわけですか?」
「そういうことになりますね。僕にとって、綿貫先生も高山先生も今同じ視点で見ることができる唯一の作家に思えるんです。だから、高山先生の作品が最近非常に気になってきたんですよ」
「三雲さんは、高山先生とはプライベートでも仲がよいようなので、実際に確認されてみてはいかがですか?」
「どう切り出せばいいんだい? 高山先生は、こちらの考えていることが分かるようなんだけど、それだけにこちらからある程度導いてあげないと、自分からは決して口を開かない人なので、ますは切り口をハッキリさせておかないと、話にはならないと思うんだ」
「僕も高山先生の担当になってから数年経つので、その気持ちは分かります。あの先生は付き合えば付き合うほど、その気難しさが分かってくるタイプの先生ですからね」
「それは、最初から先生の中にあるもので、それをこちらが気づいていないだけなんだよ。高山先生は、自分が他の人と違っているということに気づいていない。だから、作家という商売ができるんだって、僕は思っているんだ」
三雲の考えは半分当たっているが、半分間違っていた。
高山は他の人と自分が違っているということには気づいているが、それを認めたくないという思いがある。だから、他の人との違いを明らかにすることがそのまま作品のヒントになっている。高山が他の人とどこが違うかということを細かいところから分析すると、無限にあるように感じられる。だから、発想が絶えないのだ。締め切りを意識しないと言った高山の言葉は、まんざらウソではない。無限に湧き上がってくる発想は、早く吐き出してしまわないと、詰まってくるからだ。
湧き上がってくるエネルギーがそのまま創作意欲に繋がってくる。
三雲が高山が自分と他の人の違いに気づいているということを理解できれば、高山のエネルギーの源と、その源がどこから沸きあがってくるかということまで分かってくるに違いない。三雲がそのことに気づく前に、高山は自分が覚醒してくることを悟るに至ったのだ。
――僕の作品の源は、夢に見たことだったんだ――
そのことに気づいた高山は、それまでのメルヘンチックな作風から、少しずつ変わっていったのだ。
一番そのことを気にしていたのが三雲だった。だから、今の担当の男に高山の変化について聞いてみたかった。しかし、彼にもよく分からないという。考えてみれば、ずっとそばにいる人間に、急激な変化が分かるはずもない。もし分かっているのだとすれば、自分にも分かりそうだと三雲は思っていた。何しろ、最初の担当であり、一番そばにいた自分だからこそ、離れてからと両面を見ることができるのは、自分しかいないと自負していたからだ。
高山の作風が、夢に見たことで記憶していることを表したものだということに最初に気づいたのは、進藤だった。
進藤は、誰にもそのことを言わなかった。気づいたといって誰かに話しても、信用してもらえないだろうし、人の作風について、あれこれ口に出せる立場でもないからだ。ただ、高山の作品が他の作家の作風に似てきたことで、その人も、夢に見たことを描いているのではないかと感じるようになった。
その相手というのが、綿貫氏だった。
綿貫の作品は、いかにも夢で見たことをそのまま描いたと言っても、誰もが納得できるような話だった。全国各地にある民話やおとぎ話の中には怪奇なものもたくさんある。それを聞いたことで自分の潜在意識が刺激され、夢となって見たとしても、それは至極当然のことではないだろうか。
進藤は自分の中で、
「私は、他人の夢を共有することができるんだ」
と、感じていた。
夢の共有とは、自分が見ている夢を、他の人も見ていて、相手はそのことに気づいていない。お互いに夢の中で、
「これは自分の夢だ」
と信じている以上、夢の共有という発想はありえない。まるで、
「交わることのない平行線」
を描いているような感覚である。
進藤の作風は、この「夢の共有」である。夢の共有という発想は、本当は他の人にもあってしかるべきだと進藤は思っていた。しかし、誰もそんな発想を思いつく人はいない。夢は自分個人のものだと思っているからだ。
そこに人間の思い上がりと自尊心が存在する。
「人は、一人では生きてはいけない」
と言いながらも、心の中では、
「俺は他の人とは違う」
と思っているはずだ。
もし、そう思っていないとすれば、一人では生きていけないという言葉を信じることで、それを生きるためのよりどころにしているからだ。元々そんなことを言い出した人も、自分の中に思い上がりと自尊心を持つことに罪悪感のようなものを感じたからに違いない。
人との間に結界を感じるとすれば、夢の共有を否定するからであろう。しかし、現実世界では、この世界を共有しているのに、夢の世界で共有できないというのもおかしな話ではないだろうか。夢の共有を否定するという考えは、本当は人間というのはいつも一人であり、他の人とは違うと思いたいにもかかわらず、それができないのはこの世界を共有しているからだ。だったら、夢の世界くらいは、共有できないようでないと、自分だけの世界はどこにも存在しないということを意味していることになるだろう。
進藤は、むしろ、他の人と自分は違うんだということを特に強く思っている。だからこそ、夢の共有という考え方は、考え方という点で、他の人と違うといえるのではないだろうか。その感情が彼の作風を作り上げているのだった。
夢を共有することによって、相手は自分のことを夢の中の登場人物としてしか思っていない。そこに人間臭さが存在する。
進藤は共有している夢の相手が人間だと思って見ていない。誰なのか分かってしまうと、夢を共有できないと思っているからだ。夢の中に出てくる妖怪は、共有している夢の相手だと思うようになった。だから、それを忘れないようにして、目が覚めてから文章にしていた。
「夢で怖い夢を見た時というのは、誰か必ず夢を共有している人がいるはずだ」
というのが、進藤の考えだった。
これは、進藤だけにいえることではない。他の人が怖い夢を見て、それを目が覚めても覚えているというのは、夢を共有しているからなのだ。
進藤の作品は、この感覚から来ていた。