【真説】天国と地獄
「それと、夢から覚めて、昼頃までその記憶が消えない夢は、必ず小説にして書いておくことをお勧めます。それも、なるべく早めに。つまりは、忘れてしまわないうちにですね」
進藤のその言葉が、高山の頭の中に入り込んで、忘れることのできない言葉となった。その言葉が、彼の童話作家としての運命を決定づけたといってもいいかも知れない。
進藤とは、その日はそれだけの会話だったのだが、同じ童話作家で、お互いに意識しているということが世間に広まったことから、それ以降、二人は時々一緒に取材を受けたりすることが多くなった。
もちろん、本業の執筆作業の合間のことなので、そんなに頻繁ということはなかったが、お互いに楽しみにしていたのも事実である。取材を受けているうちに、お互いがお互いをけん制しあったり、触れてはいけない部分があることに気づいているくせに、ギリギリまで近づいて相手の出方を待つというところがあるのは、二人が似た性格だったからに違いない。そのうちに少しずつ高山が変わってきていることにまわりも気づくようになっていたが、それも、
「作家としての成長が、そうさせたんだ」
という思いをまわりが抱いてくれたおかげで、変わっていくのがいいことのように捉えてくれることで、誰も必要以上に気にすることはなかった。
ただ一人、進藤を除いては……。
だが、当の本人も自分が変わりつつあるという意識はなかった。最初に会った時、進藤に言われた、
「あなたはこれからどんどん変わっていくような気がするんですよ」
という言葉の印象が強すぎて、自分がどのように変わっていくのかを考えた時に、普通の変わり方ではないという印象を深く持ってしまったため、普通に変わってきた自分を意識していても、それは変わったとは言えなかったのだ。
――あの時の進藤さんは、どういうつもりであんなことを言ったんだろう?
と考えた。
ずっと一緒にいることで、あの人が意味のないことを口にするような人ではないことは分かっている。
意味のないということは、根拠のないということだ。初めて会って、一目見ただけなのに、根拠も何もないだろうと思えるが、進藤に限って、何か閃きのようなものがあったに違いなかった。
――そういえば、あの時、山内さんは何かを言いかけていたな――
「あなたが変わったようにですか?」
と言った言葉を、忘れていたのだ。
それは、忘れようとして忘れたわけではないのだが、自分の意思が働いていなかったとも言い切れない。わざとではないが、無意識でもないこの感覚は、童話を考えている時にも時々感じることだった。
――僕の性格の中に何か矛盾したものが潜んでいるに違いない――
と感じていたのだ。
山内は相変わらず進藤の担当だったが、三雲は高山が童話作家として一人前になったのを機会に、新人作家を担当するようになった。
その新人作家というのは、オカルトやホラーを専門としている作家で、今までの高山のような童話作家とはまったく違ったジャンルなので、さぞや戸惑っているかと思っていたが、
「作家というのは、皆どこか似たところがあるので、それを見つけることができると、新しい人に担当が代わっても、さほど戸惑いというのはないものですよ」
と言っていた。
最初は強がりなのかと思っていたが、案外とそうでもないようだ。
相手が新人なだけに気を遣うところもあるだろうが、元々高山も新人だったのだ。そういう意味ではやりやすいのかも知れない。
三雲が担当している作家の作風は、それまでの高山の作品とはまったく違ったものだった。その作家の名前は、綿貫五郎という名前で、ペンネームのようだった。
高山は綿貫の作品が気になっていた。自分には書けない作品だという意識が強いからなのかも知れないが、気になればなるほど、三雲に逢いたくなっていた。
綿貫という作家は、締め切りには厳格な人で、そういう意味では編集者の手を煩わせることはない。しかし、ホラー作家らしく、彼は神出鬼没で、ほとんど家にはいないという。
「どうやって、原稿をもらっているんですか?」
と三雲に聞くと、
「彼は旅先から原稿を送ってくるんです。パソコンなので、メールで十分ですからね」
「それはそうなんだろうけど、編集者も知らないところにいるというのは、どうにも分からない作家ですね」
「ええ、でもそれが契約時の約束でもあるんですよ。締め切りに間に合うのなら、どこから原稿を送ってもいいってね」
「新人にしては、特別扱いなんですね」
「それだけ、社としても、綿貫さんには期待しているということなんでしょうね。事実、締め切りに遅れたことはないし、原稿もしっかりしていて、手直しもほとんどない」
「一体、綿貫さんはいつもどこに行っているんですか?」
「ほとんどが温泉で逗留しているようなんですよ。きっと、取材旅行も兼ねているんだと思います。彼の作品は、ご当地の怪奇な話が多く登場しますからね。だから、我々としても、彼の行動を黙認するしかないんですよ」
「僕などは、締め切りをあまり意識したことはないのでよく分からないんですが、締め切りに追われるというのは大変なストレスになるんでしょうね」
「そうですね。高山さんも締め切りに間に合わなかったことってなかったですよね」
「僕の場合は、週刊連載のようなものはなかったからですね。一つの作品を思いついたら、後はそれを文字にして仕上げるだけですからね」
「それがなかなかうまくいかないのが、作家というものらしいですよ。特に毎週の連載ともなると、締め切りに間に合ってから次の締め切りをすぐに意識しないといけない。永遠に締め切りというしがらみから、逃れることができないものだって聞きます」
「僕のように書き下ろしの作家には分からないことなんでしょうね」
「そうですね。綿貫さんみたいに締め切りに間に合わなかったことのない人の頭の構造がどうなっているのか、見てみたいものだって思いますよ」
「僕は、綿貫さんの作品のファンなんですよ。一度読むと嵌ってしまって、次号が出るのを楽しみにしています」
「僕も編集者としてではなく、一読者として、彼の作品は好きです。そういう意味でも、一番そばにいるはずの自分が、彼の所在を分からないというのも、複雑な気がしているんですよ」
「一度、僕もホラー作品を書いてみたいですね」
「期待していますよ」
そんな会話をしてから数年が経っていた。
「そういえば、最近の高山先生の作品は、少し変わってきたような気がしますね」
場所は幻影社の編集部。週刊雑誌の締め切りに編集部では、ほとんどの人が出払っていた。
そこにいたのは、三雲の後に高山の担当になった人と、三雲との会話だった。言葉を先に発したのは、三雲だった。
「そうですね。高山先生の作品にしては、子供向けから、少し大人向けにも見えるような掻き方になっていますね」
徐々にだが、その傾向は二年ほど前からあった。
ずっと高山のことを見ている今の担当と、担当から離れて、時々しか見ることができない三雲とでは、おのずと見る視点が違っていた。