【真説】天国と地獄
「この世界、天国も地獄も含めてのことですけれども、生前の世界にいたような時間の感覚ではないんですよ。人間というものには寿命というものがあり、時間が経てば、老いていき、最後には死んでしまうという認識ですよね。それは生物だけに限らず、形あるものは必ず壊れてしまうという感覚が当たり前の世界でした。でも、この世界は違うんです。だから、『時間を無駄に使ってはいけない』という感覚を持たない方がいいんです。時間が掛かっても、自分の納得の行く答えを導き出すことが大切なんですよ。ある意味、それはあなた方が生きてきた世界よりも、厳しいことなのかも知れませんね」
彼の言う話は、説得力があった。最初は優しそうな話であったが、次第に話に入り込むように誘導している。誘導に気づく方がいいのか、気づかない方がいいのか、三雲はその答えを見つけることはできないような気がしてきた。
「天国と地獄というと、普通なら誰もが天国に行きたいと思うはずなのに、どうして、地獄に行きたいという人もいるんでしょうね? それに地獄に行くにも審査がいるというのは、地獄にふさわしくない人がいるということでしょうか?」
「どうしても、生きていた頃の発想になってしまうんですね。あなたは、天国というところをどういうところだとお考えですか?」
「天国というと、蓮の花の咲いた池のほとりにお釈迦様がおられる世界であり、生前にいいことをした人や、悪いことをしなかった人が行くところで、さらには、俗世に染まっていない聖人君子のような人が行くところではないかと思っています」
「じゃあ、地獄は?」
「悪いことをした人が行くところで、閻魔大王や鬼がいて、地獄に落ちた人を血の池地獄や、針の山の地獄で、苦しめているというイメージです」
「なるほど、ひょっとすると、そういう世界も他には存在しているかも知れませんが、ここはそういう世界ではありません。あくまでも、死んだ人がどちらの世界に行くかを決めることから始まる世界で、地獄だからと言って、責め苦にあえぐということはありません。少なくとも、この死後の世界は、責め苦というのはない世界なんですよ」
「どうしてですか?」
「あなたがいた世界では、人から強制される責め苦はあります。理不尽な戦争や紛争で、利害から権力闘争や、身分による絶対的な立場の違いから、人は迫害されたりしました。死後の世界ではそんなことはありません」
「それで、秩序が守れるんですか?」
「秩序? そうですね。秩序を守るには、絶対的な支配者がいなければ成立しませんよね。地獄には絶対的な支配者がいます」
「それが閻魔大王というわけですか?」
「ええ、あなた方が思い描いている地獄という世界で、一番正しく描かれているのは、閻魔大王という人の存在でしょうね。閻魔大王のまわりには、彼を警護するという意味で鬼がたくさんいます。でも、鬼も閻魔大王も人の自由を奪ったりしません。少なくとも自由を奪ってしまっては、地獄という世界は成り立たないことになりますからね」
「一人の独裁者に支配される世界というのは、危険なんじゃないですか?」
「確かにあなたの頭の中で考えている発想であれば、危険を伴います。でも、ここは、あなた方が思っている天国と地獄とは違っているんですよ。そのことは、高山さんが一番よくご存知なんですけどね。あなたも高山さんと天国と地獄の話をしたことがあったはずなので、何となくイメージのようなものが芽生えているのではないかと私は思っていたんですよ」
三雲が少し考えていると、
「三雲さん、あなたの時間に対してのイメージが、ここで話をしている間に少しずつ変わってきていませんか?」
言われてみれば、
――なるほど――
と感じた。
「時間に対しての感覚なのかどうかは分からないんですが、話をしているのに、考えが前に進んでいるような気がしないんです。かといって、後ろ向きになっているような気もしない。どういうことなんでしょうかね?」
立ち止まっているというわけでもない。ひょっとすると、時間という概念はないのかも知れない。そのことを訊ねてみた。
「時間の感覚がないような気がするんですが」
「それは気のせいです。あなたは、確実に時間という道を歩んでいるんですよ。ただ、あなた方がいた世界とは概念が違います。あなた方は、時間に支配されているという意識を持ちながら、生きてきたでしょう?」
「ええ、支配されるというよりも、時間の概念がないと、生きていけないんですよ。でも、人によっては、支配されているという感覚に陥っている人もいたと思います」
「それはそうでしょうね。楽しいことが待っていれば、それまでの時間は早く済んでほしいと思っているし、楽しいことがやってくると、今度はその時間が永遠に続いてほしいと思う。それが終わると、次の楽しいことが起こるのを待ち望んでいるんですよ。目標があれば、目標に向かっていく時間が貴重だと思うんでしょうが、それ以外の時は、時間に対して漠然とした感覚しか持っていないんですよ。それを皆さんは、『他人事』だっていうんでしょうね」
「どういうことですか?」
「実際には、支配されているという意識があるから、他人事のように思ってしまうんじゃないですか? 人間というのは、いつでも逃げ道を探している生き物だからですね」
「それが悪いと言われるんですか?」
「いいえ、そんなことは言いません。逃げ道を求めるのは当然のことだと思います。誰だって、苦しい道を敢えて進もうなんて思っていませんからね」
「でも、いばらの道を歩む人だっているじゃないですか?」
「その人にとってはいばらの道でも、その道が逃げ道に見える場合もあるんですよ。それが間違っているのかどうなのかは、誰にも分からない。その人が、その瞬間瞬間で選択する無限の可能性の積み重ねが、未来に続いていくんですからね」
「それが時間だとおっしゃるんですか?」
「そうですね。時間というのは、無限の可能性によって導き出されるものだというのが、概念といえば概念なのかも知れませんね」
「話が難しくなりました」
「ゆっくりと考えてみればいいんです。あなたには、まだ時間がありますからね」
「ところで、天国か地獄か決めることのできない人もいるんじゃないですか? そういう人はどうなるんでしょう?」
三雲の感じた素朴な疑問だった。
「そういう人は天国に送られます。天国に行って、修行をすることを強要されるんですよ」
「修行ですか?」
三雲は、首を傾げたが、意識としては何となく分かっているような気がしていた。
「そうです。自分で自分の行き先を決められないような人は、修行が必要ということですね。これはあなた方が前にいた世界と同じ理屈になります」
「それで天国なんですか?」
「ええ、そうです。天国は修行をするところです。まさか、何もしないでもおいしいご飯が出てきたり、リラックスできる環境が最初から与えられているだなんて思っていないでしょうね」
ギクリと感じた。今までの考えを見透かされたかのようだ。