【真説】天国と地獄
それなら、その間、自分はどこにいたというのだろう。その間の記憶はどこかにあるようなんだけれど、それがどこにあるのか分からない。それよりも、誰か違う人の考えが自分の中に宿っているような気もしてきたくらいで、その人が自分の心に何かを問いかけているように思えてならなかった。
「どうしたんですか?」
彼女は、三雲の様子の変化に今気づいたような口ぶりだった。しかし、その表情は、自信に満ち溢れているように見え、
――私は何でもお見通しよ――
とでも言いたげに思えた。
まっすぐに歩いていると、目の前に扉が見えてきた。さっきまで扉などどこにもないところを歩いていたはずなのに、一つ扉が気になると、いくつもの扉が目の前に現れてきたのだ。
――そんな、扉なんかなかったはずなのに――
本当に不思議な世界である。
ただ、最初から扉がないのは不思議に感じていたこともあり、自分の中で扉を想像してみると、一つ現れた。それが妄想となって膨れ上がり、いくつもの扉が見えたのだとすれば、ここは夢の世界に似たものなのかも知れない。
夢というのが、潜在意識の見せるものだという思いを抱いていたので、ここでの出来事は夢よりもリアルであり、想像したことがストレートに目の前に飛び込んでくる感覚を作り出しているものだといえるのではないだろうか。
そしてもう一つ感じたことは、真っ白い壁の間を歩いていたので、自分が歩いているスピードがどれほどのものなのか、よく分かっていなかったようだ。扉が現れたおかげで、自分の歩いているスピードの感覚を感じることができたのだが、そのスピードが自分で感じていたよりも、かなり遅かったことに気が付いた。
そのことを彼女にも分かったのか、
「ここはあなたが感じているよりも、時間が経つのはかなり早いです。今、扉を見て、歩くスピードが自分の感覚よりも遅く感じているでしょう? それは実際の感覚よりも時間の方が早いからなんですよ」
その言葉を聞くと、
「ああ、そういうことか。だから、さっき扉からこの通路に出てから、さっきの部屋のことを思い出そうとしたとき、かなり以前のことだったように感じたのは」
それにしても、かなりの以前ではあるが、
「ええ、その通りです。さすが三雲様は聡明でいらっしゃる。私が想像していたよりも、かなり賢明なお方なのではないかと思うようになってきました」
「それは、嬉しいですね。でも、まだ私はこの世界のことを何も知らないので、あなたがいないと、何をどうしていいのか分からなくなります」
と言って、また三雲は我に返った。
「あれ? 他の人はどうなんです? 僕に対してのあなたのような、『道先案内人』のような人が付いているんでしょうか?」
と聞くと、彼女は少し微笑んで、
「ついている人とついていない人がいます」
と答えた。
「ついている人とついていない人とで何か違いがあるんですか?」
「それは私には分かりません。上の方で決めて、割り当てられるんです」
「じゃあ、あなたが僕についたのも割り当てられたからなんですか?」
「いえ、あなたは私が選んだんです。ここでは案内人が死者を選ぶこともできるんですよ」
「あなたは、案内人という職業なんですか?」
「職業という考えとは少し違いますね。案内人をすることは、ここでは義務ですので、選ばれればしなければいけない。でも、義務の前に権利でもあるので、案内人の相手を選ぶこともできるんですよ」
「どうしてあなたは私を?」
「どうしてなんでしょうね? ただ、運命のようなものを感じたというのが、一番近い感覚なのかも知れません」
「選んでくれて光栄です。それが運命だとすれば、今まで運命なんどという言葉をあまり気にしたことのなかった僕が、初めて感じる運命になるのではないかと思っています」
「ただ、ここの世界はあなたが思っているよりも、かなりシビアですので、そのことだけは感じておられた方がいいと思います。忠告のようなものだと思ってくださいね」
最初は、彼女の顔を直視できなかった。
自分がこの世界にいるということは、自分が死んだということであり、それを認めたくはなかった。つまりはこの世界を否定したかったのだ。
――これは夢なんだ――
誰もが感じることだろう。
案内人の彼女の顔を直視できないのも当たり前というものだ。
しかし、そのうちに顔を見ることができるようになった。それは扉を開けてからのことだった。
扉を開けて、その向こうに飛び出すと、それまで見えていなかったはずの彼女の顔を感じるようになった。
――背中を向けているはずなのに、どうして彼女の顔が確認できるんだ?
という疑問はあったが、それはきっと、最初に何も見えなかった空間で、一度目を閉じて、それから少しして目を開いた時、自分の中で何かが変わったのかも知れない。
それは、今までは生きていた頃の自分に近かったものが、目を閉じて、その後開けた瞬間に、死後の世界の人間に近づいたことを示しているのかも知れない。
――だから見えなかった扉が見えるようになったり、さっきまでの部屋での出来事がかなり昔に感じられるように思えたからなのかも知れない――
と感じた。
さらに不思議に感じたことは、さっきまでの部屋での会話よりも、生きていた頃のことの方が身近に感じられた。
――確か、最後に記憶しているのは、バーで高山さんやマスターと天国と地獄の話をしていた時だったよな――
というのを思い出した。
最後にしたのが、天国と地獄の話だったというのも、実に皮肉なものだ。今頃自分のいなくなった世界では、自分の葬儀が行われているのかも知れない。そんなことを想像していると、死んだというよりも、まったく違う世界に飛び出したという感覚の方が強いことで、本当に自分が死んだということを、どうしても信じることができなかった。
――死んだということは信じられないのに、この世界のことは信じられるんだ――
そんな不思議な感覚になっていた。
三雲は、最初自分が死んだということで、
――この世界にいるには、今まで生きていた自分を否定しないと、ここではいられないのではないか?
と思っていたが、彼女と一緒に通路を歩いているうちに、次第に考え方が変わってくるのを感じた。
――今まで生きてきた自分がいて、その延長上に今がある。ただ、その間に自分が死んだというイベントが存在するだけのことだった――
と感じるようになった。
そう感じることが、
――人間、最後は一人なんだ――
ということを感じさせるに至ったのだが、その思いは、最近持ち始めた気がした。
それは生きている間ではあったが、一人だと意識した時を思い出してみると、
――あの時、自分の死期が近いということを悟っていたのではないか?
と感じていたような気がした。
最初は信じられなかった自分の死を、何となくだが受け入れられるように思えたのは、この時に死期が近いことを感じていたからなのかも知れない。
――本能のようなものが働いたのか?
動物は、自分の死期が近づくと、それが分かるという。