【真説】天国と地獄
だが、生きている間に死後の世界を見ることなど、できるはずもない。できると思ったとすれば、大学のような建物の存在が自分の中で他人事には思えなかったからではないだろうか。その建物を以前にどこかで見たことがあるという感覚が、マスターの中で残っていたからだ。
――どこで見たんだろう?
と思っていたが、実はそれはデジャブではなく、逆デジャブだったのだ。
つまりは、過去に見たことを思い出したわけではなく、未来に見るはずのことを、意識していたことで、頭が混乱していた。バーの背中合わせになったその場所は、高山と三雲が行くことになる大学のような建物だったのだ。
天国と地獄、そして……
高山は、自分の身体が弱いことは認識していた。
童話作家にはなったが、それ以外の作品を書くということは、自分の寿命を縮めることになると医者から止められていた。
「神経をすり減らすような仕事をしていると、命にかかわります」
と言われていた。
童話作家が、神経をすり減らさない仕事だとは言わないが、作家という仕事を選んだ人は、いろいろなジャンルの中で、
「これだけは、神経をすり減らすことなくできるものがある」
というジャンルを目指すことになる。
それ以外のジャンルに手を出すと、よほどの神経の図太さがなければ、死と背中合わせになるだろうということを認識していた。
ただ、それを認識できる人は作家の中でも一握りで、その認識のない人は、逆に神経が図太いか、作家としては長続きしない人ではないだろうか。
高山は、そこまで分かっているつもりだったのに、どうして天国と地獄を描こうと思ったのか、自分でも不思議だった。
――作家になったのだって、他の職業ではとてもやっていけないという逃げ腰の気持ちがあったのも事実だし、童話作家として無難に生きていければそれでいいと思っていたはずなのに――
と、急に考えが変わってしまったことに恐怖を感じていた。
それが自分の意思とは別の意識がどこかで働いていて、逃げることのできない状況に追い込まれてしまったのではないかと思いながらも、三雲に話すことで、本当は止めてほしかったという気持ちがあったのも事実だ。
高山の発想には敬意を表していたが、彼の中にある小心者としてのレッテルは、三雲にも分かっているつもりだった。
だが、さすがの三雲にも、高山が抱えている精神的な苦悩は分からなかった。それは、最初から持ち合わせていたもので、他の人のレベルがゼロであるなら、高山は最初からマイナススタートだったのだ。
三雲が高山に最初から興味を抱いたのは、このマイナススタートを意識していたからだった。
ただ、
――どこか、他の作家とは違ったところがある――
という意識があった程度で、まさかマイナススタートだとは思っていなかった。
それを分かるようになったのは、三雲が高山の担当を離れて、綿貫の担当になったからだ。
綿貫は最初から他の作家よりの突出したところがあった。もし、綿貫に突出した部分がなければ、三雲も高山の本性に気づかないままだったかも知れない。しかし、知ってしまうと、高山のことが気になって仕方がなくなり、担当を外れても、今までどおりの付き合いを続けていくことになるのだった。
マイナススタートは三雲にとっては悲観的なものではなく、
――限りない可能性を秘めている――
と、逆に感じられるようになったのだ。
三雲は高山のことを考えながらぼんやりと歩いていると、目の前に白い閃光を感じた。今までにも見たことがあったような気がする閃光だったが、それがどこで見たものだったのか覚えていない。しかし、つい最近だったことに間違いはないようで、気が付くまでに少し時間が掛かる気がしていた。
目が覚めると、目の前には白い壁の古めかしい建物があった。どこかの研究所のようで、昭和初期にタイムスリップしたのではないかと思えたが、それが高山の話していた「大学のような建物」を思わせるものだということに、すぐに気づいた。
「ここは一体?」
空は真っ暗だった。夜なのか昼なのかも分からない感覚に、ただ目の前の建物の前で佇んでいるだけの三雲に話しかける人がいた。
「ようこそ、どうぞ中へ」
その人は、黒装束に身を包んだ女性で、まるで魔女を思わせた。
「ここは一体どこなんですか?」
「あなたは、たぶん分かっておられると思うのですが、死んだ人間が最初に来るところです」
「えっ、僕は死んだんですか?」
「ええ、死んだという意識がないまま、ここに来られる方はたくさんいます。半分以上の方がそうではないでしょうか?」
「それは、死を受け入れられないということですか?」
「ええ、寿命で亡くなった方でさえ、最初は自分が死んだということを理解するまでに時間が掛かるくらいなので、若くして亡くなった方は、余計に死を受け入れることはなかなか難しいんでしょうね。だから、この施設があるんです。いきなり死後の世界へいざなったとしても、戸惑うだけですからね」
「じゃあ、どんな死に方をした人でも、ここを通るということですか?」
「ええ、そうです。そして、ここに来られる方は、生前にどんな生活を送っていたかということは一切関係ないんですよ。ここにいる間は皆が平等、それを忘れないようにしてくださいね」
と、その女性は言ったが、生きている頃もそうだったのではないだろうか?
三雲はそのことを訊ねてみる。
「平等って言っても、生きている間も平等だったのでは?」
どう答えるかが気になっていた。本当は、生きていた世界で皆が平等などというのは理想であって、現実にはありえないということが分かっていたからだ。この世界でこの女性は、それでもここを平等だと言い切った。何か納得のいく説明がないと、承服できないと思っていた。
――そもそもこの世界自体、夢を見ているのではないだろうか?
その思いが一番強かった。本当なら、
――夢なら早く覚めてほしい――
と思うものなのだろうが、それでは納得がいかない。少なくともこの女性の正体を暴いてからでないと、目覚めが悪いと思った。
彼女は静かに答えた。
「あなたは平等という言葉を私が考えている内容と違って解釈していますね。もっとも生きていた世界から来た人は、皆あなたと同じで、その感覚が、生きていた時代を象徴しているんですよ」
三雲は少し苛立った。
――なぜ、この女性はこんなにも相手を否定するような言い方をするんだろう?
生きている時代では、反感を買われるので、普通なら口にすることはないだろう。もちろん、頭の中で考えている人はいただろうが。そのことを思うと、この世界は、正直に思ったことを口にする世界なのかとも思えてきた。
「あなたの言い分は正当なのかも知れませんが、相手の気持ちを考えて口にしているとは思えませんね」
というと、
「なぜ、相手の気持ちを考えないといけないんですか? 相手が傷つくからですか? 本当のことを言って傷つくのはあなたが生きていた時代のことであって、ここでは傷つくという感覚はありません。何しろ、皆が平等なんですからね?」