短編集2(過去作品)
この男はずっとその湖を見つけるために旅をしているのだろうか。私もここに来るまで頭の中に残ってはいたがほとんど忘れていた。しかし途中でそれを少し思い出しこの山に登ったのもまんざら偶然ではないとしたら、この男との出会いにも何か運命的なものを感じる。いわゆる創作意欲も湧いてくるというものだ。
男はそれだけ言うと、また街を見下ろしている。相変わらず変化のない表情ではあるがそこには自分の探している湖が無かったことへの責念は微塵も感じられない。どちらかというとサバサバしているようにも見える。ここから見える風景は平凡といえばあまりにも平凡で、感動を与えられた富士山も夕日もいわし雲もなくすっきりしない天気の中をどんよりとした切れ目のない雲が浮かんでいるだけである。
私はこれ以上はなしかける内容もないことを感じ、そのまま山を下りた。結局印象に残ったのは、男が最後に見せたあのサバサバした表情だけであった。
帰りのバスに乗り込む頃には、すでに夕方近くになっていた。しかし昨日温泉に着いた時のような穏やかな天気ではなく、厚い雲に覆われた曇天からは西日を拝むことすらできない。あたりは薄暗く、まるで小さい頃に見た白黒テレビのように色もなく、このうえのない寂しさを感じる時間帯である。
(同じ時間帯でこれほど違うものか)
しかしこのどんよりとした寂しさも慣れてくるとそれほど気にもならない。ひょっとしてこの街の本当の顔というのは今なのではないだろうか。バスのリアウインドウ一杯に広がった遠ざかる街を眺めていたが、小さくなっていくにしたがってまるで霧に包まれたかのように見えなくなってくる。次第にその一帯だけが闇に包まれ、まったく見えなくなってきた。
バスが宿に向かって行くにしたがって、何かしら雲ゆきが怪しくなってきている。さっきまでは雲が多くともそれほど感じなかったが、明らかに今浮かんでいる雲の厚さは半端なものではなく今にも泣き出しそうである。まわりの田園風景ももちろん確認することができず、完璧に陽が沈んでない分、限りなく暗黒に近い影が重厚に横たわっていて気持ち悪さを感じる。
風があるのか森の中を走っている時などカサカサという音が聞こえ、ヘッドライトに落ち葉が舞っているのが見えて来たが、そのうちフロントガラスに一粒の水滴が確認できたかと思うとそれが合図であるかのようにバスに打ちつける雨の音は激しくなって行った。ワイパーがフル回転の中、横殴りの雨が窓を打ち続ける。
私が驚いているのを察してか、
「いやあ、ここじゃあこれくらいの雨は普通ですよ。急に雲ゆきが怪しくなって来たかと思ったらいきなりの集中豪雨、こんな山間のところに住んでいればこれくらいは日常茶飯事です」
そう言いながら運転手は難易ごともなかったような涼しい顔で運転している。
こんな集中豪雨の中思ったより短く感じたのか、気が付けば宿の近くまで来ていた。不思議なことにさっきまであれほどの集中豪雨がバスを降りる寸前には小降りに変っていたようで、降りた時にはほとんど止んでいた。星空が見えないのは残念だったが、露天風呂に入るには支障はなさそうだ。
さっそく部屋に戻り、着替えてからすぐに露天風呂へと向かった。
露天風呂までの一直線になった薄暗い廊下を歩いていると、ちょうど先客があったようで湯から上がったその日とが暖簾を掻き分けるように出てきて反対側へと向かって行った。反対側には離れのような構図の部屋があるらしく、常連さんが利用していると聞かされていた。
顔までははっきりと確認できなかったが、雰囲気的に私よりだいぶ年輩であることは想像できた。
露天風呂に入り、初めてゆっくりできたような気がしていた。その頃にはすっかり天気も良くなっていて、空には明るい月とそのまわりには満天を彩るように星が瞬いていた。昨日とは赴きがだいぶ違っていたが、しばし時を忘れ、昨夜とまったく同じ月夜を楽しんだ。
部屋に戻ると、今日はゆかが待っていた。もちろん食事のまかないのためである。
爽やかな笑顔のゆかに、今日行った街のことを話した。
「あそこは私もよく行きましたよ。小学生の頃、神社の境内でよく遊びましたから」
神社の風景が目に浮かぶ。耳元でカラスの鳴き声が響き、「夕焼け小焼け」のフレーズが頭を掠める。
「垣根のようになったところの奥にある展望台、あそこの眺めは最高だよね」
「そうですね、西日に照らされて、向こう側の山間や街並みがくっきりと浮かび上がって見えるのが良かったですね」
休むことなく手を動かしながらではあるが、ゆかはことばの一言一言に自分で頷いている。想像している私も頭の中にその光景がくっきりと浮かび上がっていたが、それはやはり小さい頃に見た光景とシンクロしているからである。
ゆかは続ける。
「それに少し大きな池があって、そこの水の色が西日に照らされていてもそれでも真っ青に見えたっけ。しかもそこは不思議なことに風が強い日でもほとんど波が立たないんですよ」
無意識ではあったが最初に湖を探していた私が、そんな池があったのなら見逃すはずはない。私は一瞬、不気味なものを感じた。
「どうしたの?」
私が黙っていると、ゆかが不思議そうな顔で覗き込んだ。
「いや、そんな池はなかったけどね」
「そう」
もっと驚くかと思ったが、意外とあっさりとしていた。
それからのゆかは口数が極端に少なくなった。黙々とした食事の時間が過ぎて行く。
「ところで今日は他にも宿泊客がいるみたいだね」
「ええ、おられますよ」
確か昨日は数日予約が入っていないと言っていなかっただろうか。
「えっ、でも昨日ここ数日予約は入っていないって言っていなかったっけ」
「いいえ、そのお客様は昨日もお泊りでしたよ」
一体どういうことなのだ。確かに昨日は私一人だけと聞いていたが、
「どういうお客さんなんだい?」
「何でも大学の先生らしいですよ」
大学の先生? まさかとは思うが、
「名前は何と?」
「S大学の先生で、三原さんとおっしゃいます」
S大学の三原教授というとここを教えてくれた人ではないか。そうか、あの人も一日遅れで宿泊予定があったのだ。それならば、後で一言紹介してくれたお礼がてら、陣中見舞いに伺うとするか。
「先生はいつからご滞在なんですか」
「二日前、お客さんが来られる前日です。そういう意味では先生はラッキーでしたね」
「どういうこと?」
「先生はこの宿の先にある峠の上からの景色を楽しみにしてこられるんです。特に二日前はいわし雲がきれいで、それはそれは喜んでおいででしたよ」
二日前も快晴だったのか。私は瞼の裏に焼き付いているはずの昨日見たいわし雲を思い浮かべようと瞼を閉じた。が、どうだろう。目の奥に焼き付いているはずのいわし雲が浮かんでこないではないか。まるでいわし雲を見たことが嘘であったかのようにである。
「そういえば、私も昨日きれいないわし雲を見ましたよ」
私はゆかからの正反対の返事を二つ頭に描いて訊ねた。
「えっ、昨日は雨が降っていて見えなかったはずですよ」
作品名:短編集2(過去作品) 作家名:森本晃次