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短編集2(過去作品)

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 少し広くなった境内はどこにでも見られる神社の風景として、さして記憶に残るようなものではない。私の幼少時代よく遊んだ境内と変わりなく懐かしさがよみがえってきたのは事実だ。なるほど秋祭りでもあるのか、境内の中央には組み立て途中とみられる櫓があるが、今日は誰も来ておらず組み立てる様子もない。
(上がってくるまでもなかったのかな)
 少しがっかりしながら境内を一周していると、外周を覆うように生えそろっていた垣根が少し切れ、そこから道が続いているのが見えた。期待して近づくと果たしてそこは期待通り下界を見渡せる展望台となっていて、この街に来て誰一人としてすれ違うこともなかったにも関わらず、そこにあるベンチに腰掛けている男を見つけた。
 少し白髪まじりの男は腰をかがめ、微動だにせずじっと下界を眺めている。声を掛けにくそうなその男の後ろから回り込むようにして前に回ると、私に気づいたのかゆっくりこちらを向き頭を下げた。驚いたことに白髪まじりだったので初老の男と思いきや、まだ二十代そこそこの若者だった。しかしその顔に気は感じられず、昨日ほとんど眠っていないのか、充血したその目はとても焦点が合っているようには見えなかった。
 一瞬振り向いたその男はもう一度下界を見つめ、じっとしたままでいる。こちらから声を掛けてもよいのだが、とりあえずその男の様子を窺ってみると、とても話し掛けてくれるような雰囲気ではない。そんな状態がどれほど続いたであろうか、五分、十分? いやそれ以上かも知れない。時計を見る余裕もないほどその男を見つめていたのは、もし時計に目をやった時のその一瞬でも男の様子が変わるのを見逃したくなかったからだ。いや、その一瞬で目の前から消えてしまうのではないかという錯覚さえあった。
 最初は男の顔を中心に、次は体全体を、そして男の周りにまで視界を広げられるようになった私もその時は隣のベンチに腰掛けていた。もう男にだけ神経は集中していない。ここから見渡す景色が次第に視界に入ってくると自分が固まってしまったかと思うほど、目の前に広がった世界を凝視していた。
 確かに登りは急だったがそれほどの距離を歩いたかんじもなく、下から見上げた時すぐそこにあったにも関わらず、上から見ると所々に点在する家屋がまるで豆粒のように見える。しかし下から見た時に四方を囲んでいる山が迫ってくる圧迫感を感じたにも関わらず上から見ると開放感すら感じるのはなぜであろうか。一直線に続いている国道、それを斜めに横切るように流れている街唯一の川も上からだとくっきりと見え、それが西に傾きかけた日に照らされ浮かび上がっている。
(そういえば小学校のころにも同じような思いをしたっけ)
 そう思いながらふと横を見ると、さっきまでじっと下を見ていた男と眼が合った。いつ頃からか、じっとこちらを見ていたようだ。
(この顔どこかで)
 一瞬だがそう思うと、もうその人は私が知っている人だという思いが頭を支配した。どこかで一度ちらっと会ったくらいであろう。もちろんどこの誰かも和から頭、ただ知っているというだけである。しかしその時のインパクトが激しければ激しいほど誰だか分からないその男のイメージだけは、しっかり頭の中にインプットされていたのだ。
 今まで気が付かなかったが、その男の手には一冊の文庫本が握られていた。かなり古い本なのか途中が破けていて、作者はもちろんのことタイトルも分からない。その男は無言のまま、その本を私に手渡した。
 私も小説家の端くれ、手渡された本を斜め読みした。
 人間というもの、ある特定な人物とであれば、同じ五感を味わえるというものである。但し、それはすべての時ではなくその相手を見つけることができ、相手が味わったことと同じことを味わいたいと思った正にその時に味わうことができるというものである。
 この小説は自分にとって特定な人物を見つけることから始まり、偶然その能力に気付いたのである。相手が見つかったその日からを境に主人公はこの能力をフルに使うのだった。なぜなら自分にとって特定な男は強運の持ち主で、やることなすことが成功を収め、得た金であらゆる五感を満足させていたからである。
 しかしその強運はいつまでも続かなかった。運命のいたずらか、酔っ払って気持ちよくなった男が道路に飛び出しそうなのを助けようとして交通事故に遭ってしまう。そのまま昏睡状態に陥った主人公は同じように昏睡状態に陥っていた男のことを思ってしまったがために自分の肉体を離れ、男の命を助けてしまうという皮肉な結末を迎えたのである。
 ストーリーとしてはそれほど突飛なものではなく「俺にだってこれくらい」と言いたいくらいだった。しかしなぜか私の頭の中にその内容が深く刻み込まれていることに気が付いた。
特定の人物と五感が分かち合えるというこの発想が引っ掛かる。一度ならず二度までも人生に影響を与えて来たことを記憶しているからである。
「ずっと昔、同じような景色を見たことがあるんですが、その時は大きな湖がありましたね」
 その男が始めて口を開いた。驚いてその男を見ると今までの無表情とは違い、ニコニコ微笑んでいる。無表情だったその顔から想像もできないような笑顔が満面に溢れていた。
「それはどんな湖ですか?」
 私もここへ来る時、湖があるのではと何の根拠もない想像が頭をかすめたのを思い出した。しかし今こうしてこの男の口から出て来た湖ということばを聞いて、一旦消えてしまった湖のイメージがまた頭を擡げ始めた。
「そうですね、静かな森の中にある湖ですね。森はまるで樹海のように広がっていて、いつも地面は水を含んでいるかのようで歩きにくいんですよ。表から見た分には森としてしか見えないから、そこに湖があることを知っていた人はわずかだったはずなんですよ」
 私が想像したのも森の中の湖だった。男はさらに続ける。
「実は恥ずかしい話、そこがどこだったか何故か思い出せないんです。しかし森の中のイメージだけがやけに鮮明なんですよ。湖から富士山が見えましてね、ほとんど無風だった湖面にクッキリと逆三角形が浮かんでいたのが印象的です。しかし私は昼間よりも夕方の方が好きでした。それも秋、夕日が真っ赤に湖面を染め、空にはきれいないわし雲が浮かんでいるんですよ。時間が経つにつれその立体感が何とも言えなくて、そりゃあ見せてあげたいくらいですね。そんなことがあってからですかね、私が旅に出ると山の上から見下ろすようになったのは。ひょっとしてあの森の中の湖が見つかるんじゃないかという淡い期待を持ちながら……」
 男の説明は目を瞑れば風景が瞼の奥に浮かんでくるほどであった。いや、私の記憶が徐々に蘇って来たというべきだろう。頭の中に出来上がった風景を男の話が裏付けしているようなものだった。
 この男が抱いている湖は、私がイメージとして持っていた湖と同じものかも知れない。いや、きっとそうだ。富士山もさることながらきれいないわし雲、目を瞑れば浮かんでくるその風景は、まるで男の頭の中を覗いているかのように鮮明で、とても過去のものとは思えない。
作品名:短編集2(過去作品) 作家名:森本晃次