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短編集2(過去作品)

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 ここには何かがありそうな気がしていた。人里離れた温泉という自体神秘的で、外から見るより中が広々と感じるのも面白かった。図書館で男の話を聞き行ってみようという気になったのは創作意欲への期待が少なからずあったからかも知れない。
「温泉に入られますか、それとも夕食になさいます?」
「そうだね、まず温泉に入ろうか」
 アルコールを付けていいということだったので、私は星空を見ながら露天風呂での一杯と洒落込むことにした。
 いつ終わるとも知れない果てしなく続く廊下は薄暗く、少し気持ち悪かった。しかしそれも廊下から表に出た時の粋な演出であることが分かると、思わず唸ってしまう。表に出ると満天の空には無数の星が煌いていて、都会ではプラネタリウムのような人工の空しか見たことがなかったので、口では言い表せないような素晴らしいものだった。
 中でもこの時期は仲秋の名月というだけあって果てしなく真円に近い月は眩しいくらいで、水面にくっきりと浮かび上がった月を見ると、このまま湯に浸かると崩れてしまうのがもったいないくらいである。
 空に浮かんだ雲は月のすぐそばに、まるでフランスパンのように横たわっていたが、あまりにも明るい月の光に照らされて、まわりが明るく光り浮かび上がったように見える。それは夕方見たいわし雲と同じようなインパクトを私に与えたが、夕方を動とすれば今は静であり、正反対の感動を与えてくれる。酒を飲みながら温泉に浸かるのが最高の肴であることには間違いない。
 私はここを紹介してくれた男のことを思い出した。
 そういえば面白い人のようだ。悪く言えばずうずうしく見えるほど熱心にここを紹介してくれたかと思えば、自分のことに関してはかなり控え目で一切語ろうとはしなかった。本当は聞こうと思ったが、そんな雰囲気ではなかったのだ。普段は無口な男なのだろう。話しながらでも声が上ずっていて、私に話し掛けるのにもかなりの勇気を振り絞ったに違いない。
 私の大学時代の教授にあんなタイプの人がいた。普段生徒が騒がしくしていても黙々と授業を続けているのに、こと自分の専門ともなるとまわりなど関係なく、彼らに負けじと大声をはり上げる。かくいう大学教授とはそんなものかも知れない。
 大学時代、大学教授に対していろいろなイメージがあった。いいイメージ、悪いイメージ両方である。当時の私は素直というか、人の話や噂など少々信じがたいことでも何でも信じてしまっていた。サラリーマンと違い構内に自分の研究室を持っていて、研究名目の出張もし放題といった自分ペースでの仕事に憧れを持っていた。学問に対する前向きな姿勢、それだけで尊敬に値するものがあるのだ。
 しかし悪い方として単位ギリギリの女生徒と関係を持って、単位を取引しているというイメージである。もちろんどっちもどっちなのだが、尊敬している大学教授だけにその噂は私に対して裏切り行為に思える。ここを紹介してくれた教授はどっちなのだろう。
 腰の低そうな男であった。家に帰れば寡黙な男だろうという想像がつく。私に対して声を掛けるにも度胸がいったに違いなく、それは意気投合してから堰を切ったように話し始めたことからも察しがつく。
(大学教授というのも、案外孤独な職業なのかも)
 気ままに自分の研究にいそしめる職業であるがゆえに、孤独とはいつも隣り合わせだ。何をするにしてもまわりの人たちの中に自分が研究していることに対し、自分よりも専門家はいないわけで、専門家として一目置かれることはあっても、決死T協力者たりえないということが一層の孤独感を強める。
(もしあんな人が上司だったらどうだろう)
 腰が低いことは決して悪いことではない。しかしその時の笑顔が不自然で、少し引きつったものであれば気持ち悪く感じる。赤の他人と思っている時はほとんど感じなかったが、もし上司だったらと思った途端、その表情はあまり気持ちの良いものではない。
 その男が紹介してくれたこの場所は、紛れもなく私を満足させてくれるものだった。ここを紹介してくれた人を悪く言うことはここ自体を否定することになると思った私は、これ以上変な想像はやめることにした。
 温泉とアルコールをすっかり堪能した私が部屋に戻ると、食事がすでに用意されていた。部屋の入り口で頭を下げ、鎮座しているのは驚いたことにここの女将であった。
「お帰りなさいませ。お湯の方はいかがでございましたか?」
 徐々に頭を上げながらそう言う女将に対し、
「いやいやどうして、素晴らしいですよ」
 火照った顔から見下ろした女将の浴衣姿は、さらに私を上気させる。
 食膳は二つ置いてあって、どうやらもう一つは女将のもののようだ。
「よろしければご一緒させていただきたいと思いまして」
 願ってもないことだった。他に泊まり客もなく、たった一人でいるのも寂しいものだと思っており、ただの賄いだけでは却って気を遣うので、一緒に箸を傾けてくれる方が有りがたい。
「ここはなかなか良いところですね」
「そうですね、皆さんそう言って頂きます」
 その手にはお銚子が握られていて、私は恐縮しながら頂いた。温泉に浸かりながら飲んだ一杯も美味しかったが、豪華な食事をしながら、きれいな女性に杓をしてもらうのも男冥利に尽きるというものである。
「ここから五キロほど入ったところに街があるんですが、このお酒はそこで造られたこの地方のオリジナルなんですよ」
 酒を飲むのは好きな方だが、あまり銘柄にこだわったことはない。どちらかというと食事を楽しむために一緒に酒を飲むことが好きなだけで、味を楽しむことなどほとんどなかったが、そう言われてみれば今まで自分が飲んで来た酒よりも辛口である。
「小説家の先生なんですって」
「いやあ、先生ってほどじゃありませんよ。別に名が通っているわけじゃありませんからね」
「でも凄いわ。人より優れた才能ですよね」
 最初の方はこの先の街で採れる果物や名産品の話をしていたはずだった。その話も少し一段落しかかった時である。女将が私の職業について触れた。するとどうだろう、その時の会話はゆかというあの女性とした話とまったく同じシチュエーションになってしまった。まあ、お世辞として話をするマニュアルのようなものがあるとすれば、それほど多くのバリエーションがあるとも思えず、まったく同じになることも致し方ないことかも知れない。
 女将が話をし始めた頃私はすでに気持ち良い酔いに身を任せていた。というよりも、いつものペースとして酔いを感じるまでは杯を進めるが、私の場合ある程度気持ち良く鳴り始めた頃にペースを落さなければ悪酔いしてしまうことがある。しかし今日は女将との会話に新鮮さを感じるせいか気持ち良い酔いがずっと続いている。こんなことは始めてだった。
 私の頭の中にはここに到着した時に目に焼き付いたいわし雲の風景が浮かんでいた。
作品名:短編集2(過去作品) 作家名:森本晃次