短編集2(過去作品)
さすがに男の言う通り、峠から見る夕日は最高さった。これならばどんな想像をしていたとしても及ぶものではなかったはずで、しかもこれほど果てしなく向こうまで続いているいわし雲を見たことはなかった。オレンジ色の濃さから雲の厚みが分かる気がしたが、それはもちろん漠然としてであって、この空の広がり土曜、いつまでたってもその本当の大きさなど計り知れるものではないはずだ。
「褐色の空の要塞」、まさしくこの表現がピッタリだ。しかもさらに幻想的に見えるのは、それが長続きしないことである。果てしなく続いていた前方が次第に闇に包まれてくる。すっかり日は背にしている山に沈んでいて、残った明るさも次第に闇を呼び込む体勢に突入しているのだ。嗅ぎられた時期の嗅ぎられた時間が作り出す巨大な芸術、私はそれをたった今間の当たりに見たと思っただけでもここに来た意義があろうというものである。
ここから宿もではあとわずか、少し歩けば見えてくるはずである。果たしてその宿はその峠から隠れるようなところに位置していて、山の中に少し入り込んだところにあり、そこに温泉が湧き出したのだ。そのため三方を山に囲まれ奥まったようになっているのである。
温泉ブームに便乗した華やかでオシャレな宿と違い、造りは昔ながらの木造である。建物の奥からは湯気が上がっていて、男が話した秘境といわれるゆえんはその当りにあると感じた。
山に囲まれているだけあって、宿のある一帯はすでにやみに包まれていた。少し寒気があるのは気のせいであろうか。窓からもれてくる光がやたらと明るく感じ、早く中で暖まりたいという衝動も自然と沸いてくる。
「いらっしゃいませ」
どこから見ていたのだろうか、まだ入り口に入っていないにも関わらず、従業員が数名、女将を中央に一列に横並びに座り頭を下げている。一瞬圧倒されたが、これほど気持ちの良いものはない。殿様にでもなった気分になり気分は最高だ。
「道中、大変でしたでしょう。ようこそいらっしゃいました」
「いえいえ、それほどでもありません。昼過ぎに出てきましたから」
そうは言ったが、正直疲れた。昼過ぎに家を出て来たのも関わらず、家を出たのが昨日だったような気さえしてきた。
「うちは何もありませんが、温泉だけが自慢ですのでゆっくり堪能下さいませ」
そういうと女将は後ろに並んでいる女中の一人に声を掛けた。ゆかと呼ばれたその女性はまだ頭を下げたままでいたが、女将からそう指示されると始めて頭を上げこちらを見詰め微笑んだ。女性から見上げられ、その目で見詰められるのが男としてこれほど気持ちの良いものとは思わなかった。お辞儀をしたままの体勢で窮屈そうに頭を上げると、視線が熱くなるのだ。
「どうぞ、こちらに」
立ち上ったゆかは、それほど背の高い方ではない。ロングの髪を後ろで結び、和服のすそから覗くうなじがほんのりと赤みを帯びていて色っぽく感じる。後ろから抱きしめてそのうなじにキスをすると、首筋を少し傾け受入れ易くしてくれるような気がした。腕を後ろに回し抱き着いてくる姿を想像すると、まるで伊豆の踊り子の映画のワンシーンのようだ。そしてそのまま次第に唇を重ね、次第に体を……。
(おっといかん、何を考えているんだ! 来たばかりではないか)
放っておくとどこまでエスカレートするか分からない自分の想像力を一瞬抑えた。今からこれでは今後が思いやられる。決して聖人君子を装うわけではないが、理性も人並みだと思っている私をここまで思わせるのは、やはり人里はなれた温泉宿というシチュエーションがそうさせるのだろう。
ゆかはゆっくりと歩いた。途中温泉への行き方など説明してくれているようだが、始めてのところなので一回聞いただけではなかなか覚えられそうにない。しかもここは三方も山に囲まれているので、表から見るとこじんまりとして見えるが、なかなかどうして中に入ると どこまで続くのかと思うほどの廊下が続いている。一体部屋はいくつあるのだろう。
部屋に入ると縁側からはきれいな庭が一望できる。京都の竜安寺のような石庭で、その周りを緑が囲んでいてとても風流である。その奥は竹林になっていて、まるで小京都を思わせる風情である。
表の景色に見とれている私の横に立ってゆかも表を見ている。体の温もりが感じられるほどの距離に立ったゆかは、私を見上げ微笑んでくれる。
「女将さんの趣味なんです。京都が好きで何度も足をお運びになって自ら設計したんですよ。しかも風水にも興味があるらしく、それも織り込みながら……」
「すごいんだね」
これで果たして採算が取れるのだろうか? いくら秘境とはいえ、これだけの土地や建物を維持していくのは並大抵のことではあるまい。見たところ客もまばらなようだし。
私がそんなことを考えているのが分かったのか、ゆかが笑っている。
「フフフッ、本当は言っちゃいけないんでしょうけど、さっき玄関に並んでいた人全員が従業員というわけじゃないのよ」
「えっ」
「厨房の人も中にはいるけど、接客係りは本当は私だけなの。実は女将さんは近くに家を持っていて、いつもそこから通っているんです。何でも先祖が伯爵様だったらしくって、かなりの財産とこの建物を相続したのね。女将さんまだ独身なので、すべて自分の自由になるお金というわけです」
「でもここの採算は合わないでしょう」
「そんなことないみたいですよ。昔からの馴染みですが政治家の方もしょっちゅう泊りに見えられて、あまり人に知られていないというところが受けるのかも知れませんね」
「今日はほかに宿泊客はいないんですか?」
「ええっ、珍しくここ数日予約が入っておりません。ゆっくりできますよ」
じっと庭を見ている私を横目に、テーブルに腰掛けているゆかはお茶の用意をしている。独身の私にはよく分からないが、仕事から帰って一杯のお茶を入れてくれる人がいたら、どんなにか帰りが楽しみになることだろうか。
「お客さん、小説家なんですって?」
「まあね、でも売れてないから、大したことないよ」
「でも人より優れた才能があるって素晴らしいことですよ」
照れ臭かった。こそばゆいような何とも言えない心地になったのは、旅に出た開放感であろうか。
いつも旅に出る時は仕事のことを忘れるようにしている。実際、創作意欲の湧くようなところはなかなかなく、ただのオーバーオールに過ぎないからだ。
元々私は締切りギリギリにならなければ集中できるタイプではなく、ダラダラ書いていても話の辻褄が合わなかったりして、途中でやめてしまうことが多い。学生時代夏休みの宿題をギリギリになってからしかやらなかったことを思い出せば分かるだろう。そしていつも手帳だけは持ち歩き、そこに思いついたことや頭の中に残ったことを書き留めておいて、実際執筆する時は、それをパズルのように組み合わせて行くだけであるが、そこに何か芯になる発想がなければそれもかなわないことで、それが作家の作家たるゆえんなのだろう。
作品名:短編集2(過去作品) 作家名:森本晃次