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短編集2(過去作品)

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いわし雲



               いわし雲


 長かった夏も終わり、朝夕めっきり涼しくなった。舗装道路のすぐ横に生え揃ったすすきの穂の間から、コオロギや松虫などの秋の虫が、心地よいシンフォニーを奏でている。
 電車とバスを乗り継いではるばる都会から三時間、すでに夕方近くになっていて通り過ぎる風が少し冷たく感じるのは、このあたりが山間になっているからだ。下を見下ろせば見渡す限りの平野部が広がっていて、俗世を忘れるには持ってこいである。
 私はかつてこれほどきれいな景色を見たことがない。夕日はすでに山の後ろに落ちていて、秋の到来を感じさせるいわし雲が金色に照らされ、幻想的に浮かび上がっている。しかもその向こうの空は光りの届く範囲を逸脱していて、重々しい鈍色をしている。そのギャップが自然の醍醐味とでも言うのだろうか、私はしばらく立ち止まってそれを見ていた。私がこの世界から逃れられない「その時」があったとするれば、それがこの瞬間だったに違いない。


 連載の仕事も終わり、満足感と脱力感の入り交じった中、満足感はすぐに忘れてしまうものらしく、脱力感だけが私を支配している時期がある。情報収集にいつも利用している図書館に日課のように通っていたが、こんな時は活字を見る気にはなれず、いつも旅行の本や風景写真を選んで眺めていた。
 その日図書館はいつになく人がおらず、ほとんど貸し切り状態だった。静けさを義務とする図書館ではあるが、他の人がいると、どうしても本の擦れる音や歩く時の靴の音の普段気にならないことが耳に響いてくる。これがなぜか睡魔を誘い、集中力が高まらない理由であるが、まったく人がいないと今度は目が冴えてしまい、本に載っている景色が浮かびあがってくるように見えるから不思議だった。
 私が集中し、その浮かび上がった景色に入り込むような錯覚を覚え始めていた時である。いつの間にか男が座っていて、私が見ているページを同じように覗き込んでいる。私が驚いて振り向くとニコっと笑い、その男はもう一度その写真を見詰め言った。
「ここはいいところですよ。私も何度か行ったが、保養には持ってこいだ」
 小説の仕事が終わり、リフレッシュしたいと思っていた矢先、保養ということばに私は反応した。その男は保養を頻繁にするほどの年の取りようではなく、落ち着いた雰囲気は大学教授を思わせた。大学教授であれば頭のリフレッシュも必要だろう。年の頃なら五十歳前後、話を聞いてみたいと思ったのも、そういう貫禄を感じたからである。
「ここから近いんですか?」
「そうだねえ、三時間くらいかな。ゆっくりするのに温泉もあるし、しかもあまり人に知られておらず、静かを好むのならいいところだよ」
 男はニコニコしながら話した。
「温泉ですか、いいですね。さぞかし食べ物も美味しいんでしょうね」
 すでに頭の中で静かな温泉宿の雰囲気は浮かんでいた。勝手な決め付けではあるが、湯上がりに浴衣を着てあぐらを掻き、目の前に並んでいる料理の数々も豪華絢爛を極めていた。
 温泉と聞いて少し淫蕩なイメージが湧くのは、私が異常なせいだろうか。湯上がりに浴衣を着たきれいな女性が、うなじを赤く染め、後ろ髪を掻き揚げる仕草が目の前に浮かぶと、男としての本能が顔を出す気がしてきた。
「そこは美容にも良いということなので、うまく行けば女性客もいるかも知れませんよ」
 私のそんな思いを見越してか、怪しく唇を歪めながらその男が話してくれた。
 私はそちらかというと人間嫌いであるが、性欲だけは人一倍のようだ。女に対してはどうしても甘く、何度裏切られても今度は大丈夫と思うタイプである。その男の話にはおおいに興味があった。
「露天風呂もあるんでしょうな」
「もちろん。純粋な気持ちで行くなら、これほどの秘境はないですよ」
 皮肉にも聞こえたが、男のいうことが正解である。何はともあれ、温泉にでも行きたいという気持ちに嘘はないのだ。
 後で地図を書いてくれるそうだ。どうやらこの男には馴染みの宿があるらしく、自分からの紹介だと言えば、サービスは保証付きということだ。
「何なら名刺に一筆書きましょうか」
「ありがとうございます」
 そう言って三原と書かれた名刺を渡された。
 すっかり男のペースに嵌まってしまい、そのまま即決で予約まで取ってくれる親切さである。滞在期間は二十日間、三日後からの予約となった。三日後からというのは三日後からしか空いていないということではなく、あくまで私用での都合によるもので、宿の人からは「いつでもおいでください」と言われた。
「ところで、出発されるなら昼過ぎがいいですよ」
「どうしてですか」
「そうすれば到着がちょうど夕方になるからです。宿に向かう途中に峠があるんですが、そこから見る夕日は最高です。何といっても時期が良い。私はこの時期の夕日を見てもらい多いんですよ」
「分かりました。夕方着くように行きましょう」
 この男の説明がうまいのか、自分の想像力が豊かなのか、三日間ですっかり温泉のイメージが私の頭の中で定尺していた。しかし男の言う夕日のイメージだけはどうしても湧いてっこない。都会暮らしが長いと夕日を見る前にすでにビルの陰に隠れてしまうこともあり、あまり夕日を気にして見たことがないからであろう。
 この二日間、連載契約を結んでいる雑誌社と打ち合わせがあったが、今後の予定については一言も話さなかった。しばらく休養するというのは連載が終わった後いつものことなので、
別段変わりはなく、いつもであれば私の方から担当の人にどこかいい静養所がないか聴いていていたが、彼もそんなパターンが分かって来たのか、連載が終わる頃にはいつもどこかに目星をつけてくれている。今回もどこか探してあるのだろうが、私から言い出さないことを変だと思いながらも黙っているところは、それなりに私に気を遣っている証拠だろう。
 編集部に顔を出すことだけがスケジュールだったこの二日間は短いようで長かった。あまり人と話すことを好まない私は、外出といえばパチンコに行くくらいで、後はほとんど家でテレビを見ていた。仕事中、缶詰状態になっているのも息が詰まるが、それから解放され安堵できるのは少しの間だけである。それ以降はこれといって趣味のない私には死ぬほど辛く退屈な時間が待っているだけだ。
 仕事を終え、満足感に浸りながらの休息は、他のサラリーマンなどから見れば羨ましい限りであろう。しかし人間とは不思議なもので、そんな時でも他の人は一生懸命働いていることを感じ、自分がまるで取り残されているような錯覚に陥るのである。そんな自分が自分で嫌な私は、仕事が終わるとなるべく旅行に出るようにしている。
 それでも最近は編集担当の推薦してくれるプランにワンパターンが目立ち始めていた。同じ人が考えるのだからそれも致し方なく、せっかく考えてくれるものを露骨に嫌な顔も出来ない。そんな時、図書館で例の話をきたのである。騙まされているつもりで行ってみようと思ったのは今考えても納得できる。
作品名:短編集2(過去作品) 作家名:森本晃次