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短編集2(過去作品)

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自分を写す鏡



               自分を写す鏡


「ジリリリリ……」
 枕元に置いてある電話が鳴り響いた時、私は確かに夢の中だった。次第にその音が大きくなり始め、気付いた時すでに受話器は耳元にあり、「もしもし」と答えた後だった。さぞかし不思議な声だったのだろう、電話口から荒い息遣いが聞こえる。
 そこまでは完全に電話の音に驚いての条件反射だったのだろう。寝ている時いきなり枕元の電話が鳴れば同じような衝動に駆られる人は私以外にもたくさんいるはずであるが、相手にそんなことがわかるはずもなく、いきなり寝起きのドスの利いた声であれば、動揺するのも致し方ない。
「あっ、あの」
 意外にも声の主は女性だった。脅えにも似たその声はしばらく耳に残り、少し声の低いハスキーさが目立ったが、それは第一声だけだった。彼女の声には擬音が混じり、どこか男と同時に声を出しているかのごとく、まるで同一人物かと思えるほどそれ以降は落ち着いて聞こえた。落ち着きのある彼女の喋り方に、私の目もすっかり覚めてしまった。
「そちらに、柿崎陽子さんいらっしゃいますか?」
 私にとって始めて聞く名であった。すっかり目が覚めていた私の頭は、その数秒間の間にフル回転したが、結局覚えのないものだった。
「いいえ、聞いたことのない名前ですね。何番にお掛けですか?」
 ここに引っ越してからあまり間がない私は、その時新規で電話契約したことを思い出した。空き番号のいくつかからこの番号を選んだのだが、ひょっとしてその時までこの番号を使っていたのが柿崎陽子という人だったのかも知れない。
「すいません、ありがとうございました」
 私の質問には答えず彼女は自分から電話を切った。顔の想像はつかなかったが、電話口で必死に頭を下げている女性の姿が瞼の奥に浮かんでいた。
寝ているところをいきなり電話で起こされ、はっきりと目が覚めるまでは不愉快極まりなかったが、話していて次第に落ち着いてくると、カーテンの切れ間から漏れる突き刺すような朝日もそれほど不快には感じなかった。いつもであればすでに仕事の体勢に入っているはずの午前九時、久しぶりの休みということもあり、頭の中は今日何をしようかというただそれだけがあった。
忙しかったプロジェクトの仕事も終わり、疲れが残っていないといえば嘘になる。もしあのまま寝つづけていればひょっとして夕方まで寝ていたかも知れない。今日一日が無駄にならなかったという意味では、図らずも掛かってきた先ほどの電話に感謝しなければならないであろう。
 プロジェクト完成による充実感と満足感の元、迎えた今日の休日が、私にとって長いものになるか短いものになるかまったく見当もつかない。それは今日一日の過ごし方に掛かっているので、コーヒーを立てながらでも頭の中は今日の計画のことで一杯になっていた。
 いざとなるとなかなか思い浮かばないものである。たった一日しかない休み、何をやっても中途半端な気がし、さらにいいことがと思えば思うほど頭の中は堂々巡りしている。
 まず思い付いたこととして、普段であればコーヒーにトースト、スクランブルエッグといった食事が食卓を賑わすのだが、たまにモーニングは表でと思った。だがコーヒーにこだわりのある私は一杯目のコーヒーだけは自分で入れたものを飲みたかった。
 結局コーヒーを飲みながらでも考えはまとまらず、とりあえず出掛けることにした。駅の近くまでいけば喫茶店があるはずだ。
 駅まで徒歩で二十分、今まで何も感じることなく通勤路として使っていた道である。まわりに何があるかなど気にしたこともなく、いつもこの十五分は苦痛でしかなかった。
(今日はなるべくまわりを気にしてみよう)
 行きも帰りも通勤時間、開いている店といえばコンビニくらいである。国道も駅から離れているところを通るため車の通りは少なく、まわりは閑静な住宅地かそれこそまわりに何もない田園風景が広がっているばかりである。夜ともなればそれは寂しいもので、他のことを考えながらでないと暗闇に吸い込まれそうな恐怖を思い浮かべてしまう。
 表に出ると日差しは思ったよりも強く、、今までが夜行性だったような気がしてくるから不思議だ。仕事中表に出るのと、休みの日に表に出るのとでは、雲泥の差があった。
 元々仕事は仕事、プライベートはプライベートと割り切っていたこともあり、プライベートの時に仕事している自分を思い浮かべることがあるとすれば、それはもはや他人事である。流れの中で自分なりのペースを作り仕事している証拠なのだ。
 休日出勤は電話が掛かってこない分仕事が進むから好きだと思った時期があった。至福での出勤もそんな思いに拍車をかけ、嘘のように仕事が進むので一日があっという間である。のんびりしているつもりでも一たび仕事を始めると真剣になるものだ。
 歩けど歩けどなかなか先に進まない。夢の中で何かの恐怖から逃げようとして焦れば焦るほど進まないという思い似ているなどと思い浮かべた私の頭は少し変わっているのだろうか? しかしそれでも時間の方もほとんど進んでおらず、大スペクタクルを見たつもりでも実はわずかな時間しか見ていないと言われる夢と似ているところから、そんな発想が出て来たのかも知れない。
 田園風景は確かにのどかなものだった。広がっている平野部の先に見えるのは山だけである。
(あそこの山までどれくらいの距離なのだろう?)
 絵心があるわけでもないのに親指を立て、片目を閉じて山と合わせて見る行動は、意味のないものだった。山の高さも、山までの距離も分かるわけでもないのにただやってみたかったのだ。勝手に五百メートルと割り出し測量したことを「できた」と思い込んだ私はそれだけで満足だ。
 そのまま立ち止まることなく進んだ。もっとも一面に広がる田園風景、どこで立ち止まっても同じなのだ。前を見ても後ろを見ても一直線に道が続いているだけで、前を見るとまだこれだけかと思い、後ろを見るともうこんなに来たのかと思ってしまう。しかし立ち止まってしまうと今までの行程が嘘のような気がして、そのまま進むしかなかった。
 一旦、歩んで来た道を見ると、そこから田園風景を抜けるまでは早かった。別に速度を上げたわけではないのだが、後ろを振り向くことで先が見えたような気がして、心のどこかで安心感もようなものが芽生えたに違いない。
(おや!)
 住宅地に入り、二つ目の路地の右側の奥に喫茶店があるのに気が付いた。住宅地の真ん中に喫茶店があるなどあまり考えたことのない私の足は自然とそちらに向いていた。進んで行くうちに喫茶店の正面には文房具屋や酒屋のような店があるのが見えて来たが、近づくまでそれらにまったく気付かず、いきなり目の前に浮かび上がって来たように感じたのは、それだけ私が喫茶店に思い入れていたからであろう。
 店の名は、「キャッスル」といい、白壁に覆われた清潔感のある佇まいは、朝日に照らされ眩しく光っている。駐車場のまわりに埋め込まれている垣根が、昨晩の夜露によって光り輝いているのが、眩しさを助演し、まさしく白壁の「城」を思わせる。
作品名:短編集2(過去作品) 作家名:森本晃次