短編集2(過去作品)
いつもであればすぐに忘れてしまいそうなことばかり考えながら歩いているので、まわりの景色は目に入っても見ている訳ではない。考え事にしてもすぐに忘れてしまうのは大抵頭の中が会社モードになっているためその日の予定を自分なりに組み立てていることが多いからである。頭で考えるのと実際とでは違いがあるはずなので、当初の予定など時とともにすぐに忘れてしまって当然である。
しかし今日はまわりの景色を十分に堪能することができた。会社に行ってもたぶん仕事にならないだろう。かといってさっきのショックを今さらあれこれ考えても堂々巡りになるだけなので集中して考えることもない。そう考えると歩みも少しずつゆっくりとなり、今まで気にもしなかったまわりが気になり始めていた。
表通りを歩くサラリーマンのスピードがこれほど速いものだとは思いもしなかった。ゆっくり歩くことの嫌いな敦子はそのスピードよりさらに速く歩いていたことを考えると、そこにいつもの自分を思い浮かべることの難しさを感じた。
ビルの群れの谷間をいつも当然のように歩いていたが、駅から会社までは一直線、距離的に少しあっても駅から会社があるビルは見えている。いつも見上げることなどなく通勤路をひたすら歩いているだけだったので気にしたこともなかったが、歩いても歩いても一向に近づく気配のない会社は、大平原の中に立つ一軒家に向かって歩いているがごとくである。
そんなことを考えているうち気持ちに余裕が持てたことがいつもの二十分を倍に感じさせる結果となったのだろう。
敦子が会社に着くとまだ誰も出社していないのはいつものことだった。制服に着替え、いつもと変わらず掃除をすることから今日の一日が始まるのだ。
会社でいつものように一日が始まると、さすがにさっきのショックは薄らいで来た。会社での嫌なことの多い毎日を引き摺らないようにするため、知らず知らずのうちに会社と私生活の切り替えがうまくなっていた。元々一つのことに集中すると他のことがおろそかになりがちな性格が功を奏していた。
静かで真っ暗な事務所に入ってくるのはさすがに寂しく、ライトを点けてパッと明るくなった時、初めて一番乗りの実感が湧いてくる。
敦子はしきりに時間を気にしている。会社に着いて約十五分、この時間はいつも美樹が現れる時間であった。
敦子は半信半疑というより確信に近い思いを今抱いている。二番目の出社が美樹ではないということをである。「おはようございます」と言って明るく現れる姿をいつもこのくらいになると思い浮かべるのだが、今日はそれが浮かんでこない。それどころかそんな美樹の顔がまるでモザイクでも掛かったかのようにはっきりと瞼の奥に浮かんでこなくなっていた。
美樹はやはり現れない。五分たっても十分たっても現れない。敦子はホッとしたかのように掃除に精を出すのだが、それは複雑な思いであることには違いなかった。
その日、昼までは美樹がいないというだけで忙しくはあったが、平穏な時間が刻々と過ぎていった。あっという間に感じる時間の後には、普段には感じない脱力感が昼休みに入った敦子を襲った。
しかしそんな時間も昼休みが終わり、事務所に戻ってくると一変してしまった。事務所はピリピリとした緊張感に包まれ、早く戻って来た先輩社員数人が給湯室でヒソヒソ話をしている。
「藤本さんが、まさか」
「でも今まで休んだことのない人が無断欠勤するなんてね。やっぱりおかしいわよ」
美樹のことが噂になっているのだ。聞き耳を立てるつもりではなかったが、ヒソヒソ話というのはその意思がなくとも、不思議と耳に入ってくるものである。
どうやら彼女が今日来ていないという事実以外に、敦子の知らない何かが話題になっているようだ。
奥の応接室の扉が開き、課長とともに二人の男が中から出て来た。課長の表情には緊張が走り心なしか青ざめて見える。恐縮そうに頭を低くして二言三言話した課長は室内を見渡し敦子を見つけるとその動きが止まった。
目が合ってしまった敦子はとっさに背けたが、また視線を戻した。それはまるで恐いもの見たさのように顔がそのままで目だけ動いているといった不気味なものであった。
敦子を見つけた課長がこちらを指差し、それを見た二人の男が顔を見合わせ、目で合図を送るようにお互い頷くと、ゆっくり敦子の方へと近づいていった。
見知らぬ男二人の視線がまるで嘗め回すように敦子の体を上下する。逃げ出したい衝動に駆られたが、もちろんそんな不自然な行動もできず、それ以前にヘビに睨まれたカエルのように行動の自由が利かない。当然逃げて逃げられるものでないことくらい、すぐに想像はつく。
「横谷敦子さんですね。少しお話を伺えますか?」
おだやかに話してはいるが、敦子にはドスの利いた声にしか聞こえず、助けを求めるように課長の方を見ると二、三度頷きながら手招きをしている。
「どうぞこちらへ」
彼らが完全にその場を仕切っていた。私の返事がどうであろうと、話をさせられることは間違いない。敦子の返事を待つことなく、さっきまで彼らがいた応接室に有無を言わさず入らされた。
どちらが客か分からないほど恐縮して鎮座している内田課長と敦子の二人を見詰める男たちの視線は鋭い。
「こ、こちらは刑事さんだ」
課長が言うのと同じくして取り出した警察手帳は、敦子にとって始めて見るものだった。どうしても身構えてしまうのは刑事という名の魔力かも知れない。
「さっそくですが、今課長さんに伺ったところによると、この会社で藤本美樹さんと一番親しかったのはあなただそうですね」
「ええっ」
「そこで彼女についていろいろとお伺いしたいと思いまして」
どうやら刑事たちは美樹のことを調べに来たことには間違いないようだ。敦子にそれほどの驚きはなかった。敦子にしても刑事から訊ねられることがあるとすれば、美樹のこと以外考えられないからだ。
「一体彼女に何があったんですか?」
少し挑戦的とも取れる口調で敦子が言うと、刑事二人は顔を見合わせ苦笑した。
二人はそれには答えず、
「彼女、今日休んでいるみたいですね」
「え、ええっ」
「彼女が以前銀行に勤めていたことはご存知ですね」
「本人から聞きました」
「じゃあ、辞めた理由については?」
「いいえ、何も」
「そうでしょうね。実は彼女の元同僚の女性が殺されましてね、それでその人の交友関係の中に彼女を見つけ、こうしてお邪魔しているわけです」
「それはいつのことですか?」
「一週間前です。藤本美樹が銀行を辞めて三ヶ月たっていますし、最初私たちは彼女を容疑者から外していたんですが、そうもいかなくなりまして」
刑事が美樹を調べることになった理由について話してくれた。
殺された女性と美樹とは銀行内では一番気が合っていたらしい。美樹が入社して三年目、新卒でその女性大谷良美が入社して来たのだが、なかなか先輩上司となじめなかった美樹にとって彼女はよき後輩であり親友だったようだ。その件に関しては銀行内でも意見は一致し、異議を唱える者は一人もいなかった。
作品名:短編集2(過去作品) 作家名:森本晃次