短編集2(過去作品)
しかし駅のホームへあがった時の敦子の心境はいつもと違っていた。にわかに湧き出して来た緊張感の元、あたりをキョロキョロと見渡している。いつもと同じ光景なのに、その日は何か新しい発見をしそうなワクワクとした心地よい緊張感があるのだ。その緊張感は電車がホームに滑り込むタイミングをピークに次第に高まっていく。
店が開き電車の中に入ると、すでに敦子は開き直っていた。その日の目的はいつも同じ車内に乗るサングラスの男にあった。その男が以前からずっとその車両に乗っていたかは定かではないがある日感じた視線のためにその日から意識の中にその人が入り込んでいた。
しかしその男の視線を感じたのはその日が最初で最後だった。しかし敦子にその存在を意識させるには十分で、次第にその男が彼女の中で大きくなるのを感じた。ひょっとしたらその男の方で痛いほど敦子の視線を感じているのではないかと思い窓際に立つ敦子から反対側の扉付近に立つその人との距離が遠いのか近いのかはその日その日で違っていた。
その中でなぜか美樹の存在が大きかった。美樹との間に何かの違和感を感じた時は、その男との距離がやたら近く感じるのだ。美樹に対し、それだけ心の支えとしての思いがあったのだ。その男のことを美樹に話そうとも思ったが、あまりにも幼稚なことだと考えたのはそんな思いからである。
通勤電車のわりにそれほど混んでいないのは普通電車だからだ。急行で行けば数十分で行くところを満員電車のムンムンした車内を極端に嫌う敦子は必ず普通電車を利用していた。
もちろん座ろうと思えば座ることもできるが、自分が降りる時間が近づくにつれ人が多くなってくるので、人の肌が触れ合うようなそんな通勤は嫌なのだ。
いつもの車両は土曜日ということもあり、さらに人が少なかった。本来なら真っ先にその人の姿を探すのだろうがそれよりも不思議とまわりの環境が気になる。それだけ決意が固いということかも知れない。
その人はいつものところに乗っていたが、熱い視線は感じないまでも少しこちらを気にしている感じだ。車内をキョロキョロと見回している敦子が気になるようだ。
駅ホームから発車間際の電車に駆け込む人も少なく、さすが土曜日、いつになくスムーズな発車となった。
二人の降りる駅は同じなのだが、開く扉と反対側にいる敦子はいつも最後に降りることになる。その人はいつも急いでホームに流れ出て、人込みに紛れるようにいずこへかと消えていくので、実際意識できるのは駅に着くまでの約三十分ほどであった。
男は相変わらず車窓を見ていた。いつもであれば相手に悟られぬようにチラッチラッと見ているだけだが、今日は開き直りもあってか、大胆にも目をカッと見開き、相手を凝視する自分に驚いている。
窓からの風景は次第にビル群が目立ち始め、都会へと移り変わっていく。朝日がビルの窓にあたり、その眩しさのため時々顔を顰めたり視線を外したりするのはいつものことだった。しかし違うのはその逸らした視線の先に敦子の視線があるということであり、その人が自分を見詰める熱い視線に気付くのは時間の問題だった。
反射してくる光のため顔全体が光って見え、もっと近寄れば顔の凹凸まではっきり見えてきそうなその表情で、その男は敦子と目が合ったまま固まっている。
表情に変化がないと思ったのは一瞬だけのことで、朝日に照らされたことで少し透けて見えそうなサングラスの奥の目は明らかに大きく見開いている。頬の筋肉が小刻みに震えているのが見え、唇が歪んでいくのを感じた。
次の瞬間、男は顔を背けようと努力しているのか下顎だけが動き、何とか首を回そうとしている動作がどうも無駄な努力のようである。
男がどうしてそんなリアクションを示すのか敦子にはよく分からなかった。照れ屋で、女性から見詰められてはにかんでいるようにはとても見えない。それであれば下を向けばよいからだ。
「おや」
男は敦子が今まで想像していたような人ではないような気がする。何となく弱々しく敦子の視線に脅えていて、もっと強い視線を浴びせればもっと卑屈になりそうだ。敦子はさらに熱い視線を送り、さらに脅えるその人を見てみたくなった。
まるで女性のように弱々しく、いや昨今の女性はそうでもないのだろうが、まるで世間ずれしていないお嬢様のようである。
しかしそれもあまり不快ではなかった。女のようにナヨナヨしたタイプの男はいままでであれば気持ち悪さが先に立ち、汚いものでも見るように目を背けていた。本来ならばそんな男に失望し、今まで自分が思って来た気持ちに終止符を打とうとするのだろうが、今日はそんなことはなかった。
敦子の中に男に対する見方が変わって来たのだろうか?
確かにそれはあるかも知れない。男というのは逞しいもの、そして女をグイグイとリードしていくもの、女はそんな男を見つけることが最大の目的だとずっと思って来たが、それも生き方の一つのパターンでしかないことに最近気付き始めていた。そこに美樹の存在があることを敦子は否定できない。男性の知り合いはおろか、女性の知り合いもほとんどいなかった敦子にとって、女性を見る目が少し養われて来たのだろう。
だが敦子は思う。自分の男に対する見方が変わって来たからだけではないのだ。
その人の驚きの中に感じた女性のような感覚に美しさがあった。ナヨナヨしたヨロケ方にしてもしなやかさを感じる。さぞかし女性であればきれいな体をしているのだろうという思いが頭をよぎった。
「!」
そう思った瞬間敦子は思わず「まさか」と叫びたくなる思いを、必死に口の中で押し殺した。そして美しいものをしばし見詰めていたいと思う感覚とは違う思いで、今度はその人を穴があくほど見詰めた。いままで驚きながらでも見詰められることを意識し、ただ表を見ているだけだったその人は、今度は敦子の視線にさらに狼狽を色濃く表わし、明らかに動揺しているようである。それからそのまま踵を返してそこを離れるとなるべく敦子の視線を避けるようにしながら、足早に隣の車両へと移って行った。一人取り残された敦子はそれを追おうともせず、ひたすら驚いたままその場に立ち尽くしている。
二人が降りる駅が近づいて来たが、敦子は迷っている。同じ駅で降りるはずのその人の後をつけるかどうかをであるが、なぜかそんな思いも駅に着く頃には消え失せ、いつものように会社へと向かうことにした。
ホームに降りると二両くらい先の階段に一番近い扉からその人が降りるのが見え、急いで階段を駆け上がっている。その姿はもう疑いようのない女性のもので、敦子にその後を追う気力を失わせるのに十分なものだった。
「しかし、なぜ」
男性とばかり思い、ひそかに心焦がれていたその人は実は女性だった。その事実だけでも敦子にはかなりショックだったが、敦子にとっての疑問はそれだけに終わらなかったのだ。
会社までは約二十分の道のりだが、ゆっくり歩いていたこともあってか、いつもの倍くらい時間が掛かったような気がする。
作品名:短編集2(過去作品) 作家名:森本晃次