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 あの時は怒りがこみ上げてきたのだが、何に対しての怒りなのか分からなかった。それを正当化するために、母親をバカにされたことへの怒りだと、自分で勝手に思いこんでいたのだった。そのことがずっと引っかかっていたことも、子供の頃に苛めがなかなかなくならなかった理由でもあるし、今までに男性を好きになることがなかったことの原因だったのかも知れない。
 男性を好きになった時、それまで感じたことのない心地よさを感じたが、それと同時に、何か胸を締め付けられるような思いもあった。
 切ない気持ちと言えば一番適切なのだろうか。きっと精神のバランスを保とうとする気持ちが、絶えずどちらかに気持ちの重きを持って行こうとしていたに違いない。
 そのバランスが整わず、行ったり来たりしている間、
――最後には帳尻を合わせることになるんだ――
 と、どこか自分で諦めの境地に達していたのだろう。
 だから、片想いで終わってしまうのだ。告白すると、精神のバランスが崩れ、最後に合わせるべき帳尻が見えてこないことを怖がっていたのかも知れない。そんな自分が嫌になりかけていたのだ。
――引っ越すことで、何かが変わるかも知れない――
 という思いを持って引っ越してきたのだが、その気持ちの持ちようの中に、何か隙のようなものがあったのだろうか? 引っ越してきてからの楓はそれまでの楓とは違っていた。そのことはまわりから指摘されるまで分からなかったが、指摘されてみると、
――最初から分かっていたような気がする――
 と感じるのだった。
 引っ越しのための時間はたくさん持っていたが、ある程度までの片づけは一気にしてしまいたかった。三日引っ越しに費やそうと思っていた一日目で、あらかたの片づけは終わった。
――後は、ゆっくりとやればいい――
 と思うのだが、一度落ち着いてしまうと、それ以上やろうと思わなくなるのも楓の性格で、それでも最後の一日が終わった時には、体裁はしっかりと整っている。今回も同じことの繰り返しだろう。
 一日目が終わって一段落ついてしまうと、なぜかこの部屋にいようとは思わなかった。シャワーを浴びてから、夕飯は表で食べようと思い、午後七時頃に部屋を出た。近くに何があるのか知っているわけではなかったが、大通りが近くにあることで、そこまで行けば、何かあるだろうことは想像がついた。
 近くのファミレスで、カレーを食べて帰ってくると、ちょうど隣の人がお出かけから帰ってきたところを出くわした。隣には新婚夫婦が住んでいるということは不動産屋さんから聞かされていたので、仲睦まじい二人を見てすぐに、
――お隣の新婚夫婦だわ――
 とすぐに分かった。
「隣に引っ越してきた桜井です。宜しくお願いします」
「これはご丁寧に、私たちは隣の山崎です。ここに住んで一年になるので、分からないことがあれば聞いてくださいね」
 奥さんが旦那さんを制して話してくれた。女性相手には、奥さんが話す方がしっくりくるのかも知れない。
「ありがとうございます」
 引っ越しの挨拶の手間が省けたことはありがたかった。一見、仲睦まじい新婚夫婦、何でも聞いてくださいとは言われたが、無粋なことにはなりたくない。今日のように偶然出会うのであれば聞きやすいが、わざわざ、部屋に赴くようなことは、まだまだ敷居が高い気がした。
 引っ越しの片づけもほとんど終わった月曜日の夜、前日までは引っ越しの疲れからか、襲ってくる睡魔に勝てず、すぐに眠ってしまっていたのだが、その日はそれまでとは打って変わって、夜が更けるにしたがって、目が冴えてきた。
 今までにも夜の方が目が冴えることはあった。眠れないと思えば思うほど、焦るのだが、そんな時はテレビをつけて、番組を見ているわけではなく、画面から流れる映像を、何も考えずに見ているだけだった。そうすることで、時間が勝手に過ぎていくという意識が生まれ、そのうちに眠ってしまっているというのが、今までのパターンだったのだ。
 その日も、画面から流れる映像を、何も考えずに眺めていた。部屋を真っ暗にして見ていると、まわりの音が気にならなくなり、部屋の中が真空状態になったかのように、何も聞こえなくなってしまう。
 その日も布団の中から毛布にくるまるようにして映像を見ていたが、軽音楽が流れる中で、景色だけが音楽に合わせて流れていた。何も考えずに見るにはちょうどいい。同じように眠れない時には、結構風景映像の番組を見ることが多い楓だった。今回の風景は欧州のどこかの国の映像に思えた。森の中を流れる川を舞台に、景色が展開されていく。ほとんど深緑一色の光景は、涼し気に見えるが、何も起こるはずもない光景からは、自分が船に乗って川を下っている印象を受ける。流れが急になると、身体が浮いてくるような錯覚を覚え、そのうちにどこかに流れ着きそうな予感がしてくるのだった。
――こんな光景を、以前にもどこかで見たことがあるような気がする――
 と感じた。
 一番可能性があるのは、前にも同じように眠れなかった時に見た深夜放送の光景、同じシチュエーションなのに、すぐに思い出せないのは、やはり引っ越しをしたことで、部屋が変わっているからなのかも知れない。
 しかも、今回は同じ光景でも違って感じるのは、誰もいない風景の中に、誰かの存在を感じたからだった。今までにも同じように、深夜放送を見ていて、そこには誰もいないはずなのに、人の気配を感じたことがあったが、
――一番最後に意識して見た人だったような気がする――
 という意識が残っていた。
――ということは、今回は山崎夫婦ということになるのかな?
 と思いながら、映像の中で、山崎夫婦を思い浮かべてみた。
 しかし、最初に意識してしまうと、得てして予感までは感じることができても、それ以上のことは起こらない。意識がアダになることもあるのだ。
 そんなことを思いながら見ていると、さっきまで欧州のどこかの国だと思って見ていた光景がいつの間にか、違う意識に変わっていた。そしてまたしても、
――こんな光景を、以前にもどこかで見たことがあるような気がする――
 と感じたのだ。
 一晩に二度までも同じような感覚に陥ったことなどなかったはずだ。
 その光景が、以前に短大時代に馴染みの喫茶店で見た絵だということに、すぐに気付いた。もし、すぐに気付かなければ、永遠に気付かなかったのではないかと思うのは、気付いたタイミングが、絶妙だったと感じたからだ。
 短大時代と言えば、十年も前の話。そんな昔の記憶を思い出すなど、あまり記憶力のよくない楓にしてみれば、奇跡に近いくらいだった。それを思うと、一度で思い出したのであれば、それはタイミングが絶妙だったとしか思えないではないか。これも何かの縁だと思うのも、無理もないことなのかも知れない。
 ただ、楓は今までの経験上、十年という単位で何かを感じているような気がした。それは今から十年前ということに限ったわけではなく、昨年であれば、十一年前、その前の年であれば、十二年前と、その時々で、十年という単位が自分の意識や記憶を反映させているように思えてならなかった。
作品名:リセット 作家名:森本晃次