リセット
「大体一週間に一回程度くらいのものかな? 夕方が多くって、二時間くらいはいるんじゃないかな? 座る席もカウンターばかりで、話をすることがあっても私とだけで、他にもいっぱい常連さんがいるのに、常連さんとは話をしようとはしないところがある人だね」
と、聞いてもいないことまで教えてくれた。聞く手間が省けて助かったが、話の内容からすると、あまり人懐っこい人ではなさそうだ。
――どこか神秘的なところを醸し出しているような人なのも知れない――
そう思い、自分がこの店で見かけた人で、気になった人を思い浮かべてみたが、思い当たるような人に行きつくことはなかった。
――ますます気になってくるわ――
と感じたが、すでにその時から、楓はその人の魅力に魅了されてしまっていたのかも知れない。まだ見ぬ相手に、すでに魅了されているなど考えられないことであるが、もしその時に少しでも魅了されていたことに気付いていたら、楓にとって違った道も存在していたのかも知れなかった。
楓は、佐久間が現れるのを待っていた。大体一週間に一度というわりに、曜日は不定期だという。木曜日に現れたかと思うと、次は月曜日だったりするらしい。ただ、いつも日曜日から土曜日までの一週間単位でいくと、必ずどこか一日は現れるということで、一週間に一度という表現になったようだ。
最初は数日に一度くらいの割り合いで来ていたが、どうやら行き違いになっているようなので、もう少し頻度を増やした。二日に一度の割り合いで来るようになると、翌週には佐久間に出会うことができた。
お互いに初めてではなかった。ただ、いつも一人でいるという印象の彼は、楓の中では想像以上に印象に残っていなかった。
――本当にこんな人がいたんだ――
と感じたほど、すぐに思い出せなかったくらいだった。佐久間の方もマスターから楓が気にしていたことを聞いていたのか、楓の目の前に出ると、緊張して何も言えなくなっていた。
――思ったよりもシャイな人なんだわ――
いつも一人でいる人が人見知りするのは分かるが、彼は人見知りしているわけでも、女性の前に出ると恥かしくて何も言えなくなるタイプというわけでもなさそうだ。本当に何を喋ればいいのかが分からずに、困っているだけのようだった。
――それだけ変わり者だということだろうか?
確かに一人でいることが多い人は、何を考えているか分からないように見える。楓自身も一人でいることが多いので、集団で行動している人の中に入るのは苦手だった。しかも集団で行動している人の群れを見るのはあまり気持ちのいいものではない。誰が誰だか分からないからだ。たくさんの人に紛れてしまうと、自分がどこにいるのかも分からなくなってしまいそうで、息苦しさと同じくらいに却って自分に孤独を感じるかも知れない。
――その他大勢――
という言葉があるが、楓は大嫌いな言葉だった。集団に紛れていると誰もが同じ顔に見えてきて、自分が人の顔を覚えられない原因もそこにあるのではないかと思うこともあったくらいだ。
その日現れた佐久間さんは、楓が想像していた男性とは違っていた。いつも一人でいる人だという意識があるのに、見た目は、その他大勢の中にいる、
――皆同じ顔に見えてくる――
と感じる男性の雰囲気を醸し出していた。
最初は、それがどこから来るのか分からなかったが、次第に見ているうちに、
――軽いんだ。まるで空気のようだわ――
と感じた。
河川敷に落ちている大小無数の石ころに表情がないように、たくさんの人に紛れてしまうと確認することが不可能になってしまうのではないかと思うほど、重たさを感じなかった。
――顔にも表情にも、個性的な趣きがあるにも関わらず、どうしてそんなに空気のように軽く感じたのだろう?
おそらく、たくさんの人に紛れやすい表情になっているからではないだろうか? しかも気配が薄く感じられることから、何を考えているのか、想像もつかない。それがいつの間にか、楓の中で冷たいものを感じさせた。
だが、一瞬でも目を逸らすとどうだろう? 佐久間から見つめられている気配は、針で突かれているような痛みさえ感じられた。正面を向いて、彼と目を合わせれば、また最初のように軽い気持ちになるのだろうが、一度目を逸らして彼の痛いほどの視線を感じると、もう一度目を合わせることができなくなってしまった。
――この隙になら、逃げられても追いかけることはできないわ――
まるで敵から身を守るための防御法のようだわ――
保護色だけではなく、浴びせられた視線で、もう一度見返すことができなくなると、二度と彼の顔を見ることができないような気がしてきた。
――ひょっとすると、彼に見つめられて、彼の顔を二度と見ることができなくなった人も少なくはないだろう――
楓はそう思った。
一度、彼から目を逸らした人で、彼の顔を二度と見れなくなった人は、彼の顔を覚えているのだろうか?
覚えていないような気がする。シルエットのその奥に、彼の顔は隠れていて、次第に彼と出会ったことすら忘れていくのではないだろうか?
それが彼の特徴、その特徴が絵の中にも序実に現れているのだとすれば、彼の描く絵に感じた、
――絵の中から誰かが覗いているような気がする――
と思ったのも分からなくもない。
それが誰なのか、絵を見ていても分からない。どのあたりに、こちらを見ている人がいるのかも分からない。それはまるで軽い存在感を醸し出し、路傍の石のように、そこにあっても不思議のないその他大勢に紛れているために、発見することができない雰囲気に似ているではないか。それにも関わらず、鋭い視線を浴びせられた感覚も、彼以外の何者でもない。
彼の存在を見つけることができないのだから、目を合わせることはできない。したがって鋭い視線を感じたら最後、その視線から逃れることはできない。もちろん、絵から離れたところに行ってしまえば逃れられるが、呪縛から解き放たれるだけの移動は、なかなか難しかった。
だが、それでも一旦離れてしまうと、あれだけ痛いほどの視線があったことなど、すっかり忘れてしまっていた。それは、
――夢だったのではないか?
と感じてしまうと、それ以外に感じられなくなる。一旦夢だと思うと、後は忘れていくだけのことだった。
――私は、佐久間さんに興味を持ったのかしら? それとも、この絵に興味を持ったのかしら?
どちらとも言えなかった。
確かに絵は佐久間の描いたものだし、佐久間には絵の中に感じたそのままを感じることができる。しかし、この二つの思いが同じものだとは、なかなか思うことができないでいた。それは、自分が佐久間の絵を見ている限り、夢の世界から出ることができなくなりそうな気がしたからだ。
――あまりにも型に嵌った、自分の都合のいい考えではないか?
と考えるようになったからだ。
夢の世界というのは、潜在意識が作り出すものだという思いが強く、夢を見る人によって、いくらでも都合よく作り上げることができるものだと思っていた。