リセット
捜査していた刑事の一人がボソッと呟いていたのだが、それほどミチルの死は、自殺としては、動機が曖昧だったのだろう。
しかし、ここまで来ると、ミチルは自分が自殺したことに疑いはなくなってきた。楓と話ができたのもよかったと思っている。
ミチルは自分が死んでしまったことで、彼が良心の呵責に押し潰されてしまったのではないかと思い、それが気になって成仏できない。それだけだと思っていたが、ミチルは彼が奥さんのことをどれだけ愛しているかということを、成仏できずに彷徨っている間に知ってしまった。
――知りたくもないことのはずなのに――
奥さんは、顔には出さないが、自分の夫が何かに怯えているのは感じていたようだ。
ただ、それは大きな勘違いだった。
奥さんは、楓に話したように、夢の中で自分の知らない女性に、彼が微笑みかけ、癒されているのを見てしまった。それは、幽霊になったミチルの仕業で、奥さんの知らない女性というのは、ミチルのことだろう。そのことが妻である自分にバレるのが怖くて、旦那が怯えているのではないかと思っていた。
――ミチルは夢の世界に入ることは、ミチルにはできないのではなかったか?
と、ふと感じたが、ミチルは奥さんに恨みを持っているのであろうか? 持っているとすれば恨みではなく嫉妬である。もし、ミチルが夢の中に入りこめることができるのが、恨みのある人だけではなく、嫉妬を感じる相手もであるということになると、入りこめる幅は、単純に倍というわけではなく、もっともっと広がって、かなりの広い幅を制しているように思えてくる。それだけ人間の中に嫉妬心というのは渦巻いていて、たとえ関係のない人であっても、嫉妬は生まれてくる。そう思えば、夢の中に入りこめる相手は、ほとんどの人間だと思ってもいいのではないかと思えてきた。
ただ、入りこむことはできても、夢の中を操作できるものなのだろうか? 元々が夢を見ている人の潜在意識が生み出すもの。もし、操作するのであれば、潜在意識に入り込む以外にはないのではないだろうか。
――そんなことはない――
夢というものが潜在意識によるものだということを否定はしないが、
――夢を見ることで、人は自分の頭の中をリセットしようとしているのではないか?
と考えるようになった。
そうなると、夢は誰にでも見れるものだが、それなら、誰もが自分の頭の中をリセットできる力を持っているということになる。
しかし、目が覚めてしまうと、夢を見ていたことを忘れてしまっている。
いろいろな科学者が、夢のメカニズムについて研究しているのだろうが、人によって見る夢も違えば、いい夢ばかりを見ている人もいれば、中には悪夢ばかりを見ている人もいる。目が覚めてから覚えているのは、
「見た夢がいい夢の時は、ほとんどいい夢を見たということしか覚えていないけど、見た夢が悪夢の時は、意外とその内容まで覚えていることが多い」
そんな話を聞いたこともあった。
ミチルはいろいろ考えているうちに、秀之がミチルを忘れられなくなったのは、奥さんへの思いも残っていて、それがミチルに対しての良心の呵責と重なって、一つになってしまっていたのかも知れないと感じた。秀之は旦那の奥さんを描いたという絵を見てしまったのかも知れない。その絵の中に奥さんがいることで自分には、それ以上近づくことのできない結界が存在しているように思え、約束に間に合わなかったことと、結界の存在とがジレンマとなって、秀之の中に大きな後悔の念を植え付けてしまったのだろう。
秀之の後悔、それがそのままミチルを成仏させてくれないことに繋がるなど、ミチルにしてみれば、いい迷惑だったのだ。
第四章 再生
楓は、ミチルに乗り移られてから、急に高校時代の頃のことを思い出すようになっていた。
楓にも人に言えない思い出があったのだが、そのことをミチルは何も言わなかった。自分のことで精一杯なので、楓のことになど構ってはいられないというのが本心なのだろうが、ミチルにも楓の心の中にポッカリと空いた穴が見えていたはずだ。その穴を無視して楓の中に居座ることなどできなかったはずだからだ。
その時のことを、楓は覚えていないわけではない。必死に忘れようとしているうちに思い出さなくなっただけだ。それは時間が経つことによって自然に生まれた忘却なのか、楓には分からなかった。
楓はその時、自殺を考えていた。ただ、それは一瞬だけのことで、後にも先にも自殺などということが頭を掠めたのは、その時だけだった。
だから、ミチルが自殺をしたと言われても、他人事にしか思えないにも関わらず、ミチルは楓の中に入ってきた。何か自分と同じ匂いのようなものを感じたのかも知れない。
自分の部屋で、十年前に見た絵を思い出させるテレビの映像を見た時、楓の中で、何かがよみがえってきた気がした。
――何か、大切なことを忘れてしまったような気がする――
それは忘れてしまったのではなく、思い出したくないことを自分で封印しようとした結果であることに、その時の楓は気付かなかった。
しばらくしてから楓の中からミチルがいなくなると、楓はミチルが入りこむ前の自分に戻ったという気にはなれなかった。
――私の中は変わってしまったのかしら?
誰かに乗り移られたことで、自分の中にある精神的なバランスが崩れてしまったのかも知れない。
楓は、喫茶店の絵の中から、誰かに見られているという錯覚を覚えた。気になっていたが、
――次回立ち寄った時、もう一度確かめてみよう――
と思い、数日経ってまた立ち寄ると、その絵はなくなっていた。
そして、絵について初めてマスターと話をしたのだが、その絵を描いた作者は、自分で絵を持ってきて、飾ってもらうのを楽しみにしていたという。普段なら、絵を引き取ることはないが、楓が気になっていた絵だけは、本人が自ら引き取って帰ったというから、余計に気になるものだった。
――絵がないのだから仕方がない――
と、普段なら諦めたのだろうが、諦めることは、そのまま自分を後悔の念に陥れるような気がしたので、どうしても確かめたくなっていたのだ。しかも、マスターに聞いてみると、絵を描いた人と楓は会ったことがないわけではない。会話をしたことはなかったが、同じ時にこの店にいたことはあるというのだ。今気になっている人が、かつて同じ空間に、お互いに何も知らずにいたというのが、何とも神秘的な気がして、楓は余計にその佐久間という青年を意識しないわけにはいかなかった。
楓はそれからしばらく、その喫茶店に毎日のように通っていた。目的はもちろん、佐久間画伯に会うためだった。
「佐久間さんという人はどういう人なんですか?」
とマスターに訊ねてみると、
「近くに住んでいる美大生なんだ。いつも一人でコーヒーを飲みながら、絵の本を読んでいるだよ」
「どれくらいの頻度で来られるんですか?」
と聞くと、マスターも楓が聞いている意味が分かったようで、