リセット
秀之は、自分が好きになった相手と付き合いたいと思うよりも、自分を好きになってくれる人を待っている方だった。別れた彼女も、最初に彼女の方が秀之のことを好きになってくれたことで、秀之も彼女のことを好きになったのだ。
――こんなことは、他の人には口が裂けても言えないな――
「それは、本当の恋愛じゃないんじゃないか?」
と言われるだろうと思ったからだ。
自分でも、本当はそうではないかと思っている。しかし、自分が最初に好きになっても、相手が好きになってくれなければ、結局は付き合うことも叶わずに、好きになってくれるはずもないことを、無意味に追いかけてしまうのではないかと思ったからだ。
そういう意味では、恋愛に対しては冷めた目で見ているのではないかと思っていた。そんな自分であっても、好きになってくれる人でなければ、自分も相手を好きになることはないと思ったからだ。
だから、好きになってくれないと、相手を好きになることはないのだ。
――元々、恋愛に形なんてないのかも知れない――
と思っていたのだが、それは、裏を返せば、人それぞれで形が違うということを言いたかったのかも知れない。
秀之はそんな自分に後ろめたさを感じることがあった。
――せっかく好きになってくれたのに、その人のことを本当に好きになれるかどうか、自信がない――
と、思うようになっていた。
今までに付き合った女性に対しては、すべて自分は好きになったのだと思っていた。
遠距離恋愛を断られ、結局、別れることになった彼女に対しては、未練はなかったが、好きになったという事実に変わりはないだろう。
しかし、彼女と別れて少ししてから知り合った女性に対しては、秀之は好きになったとは思えなかった。
その女性がミチルだったのである。
ミチルは、秀之の前にいきなり現れた。それまで近くにいたのだが、お互いに意識することはなかった。存在を知っていたという程度で、お互いに恋愛感情など生まれるはずもない環境だったようだ。
ミチルが秀之に近づいたのは、偶然だった。まるで映画のワンシーンを見ているような出会いで、いきなり降ってきた雨に、傘もなく、コンビニの軒先で、空を恨めしそうに眺めていた秀之に対して、
「入っていきませんか?」
と、さりげなく傘を彼の上にかぶせたのがミチルだった。
その時に大した会話をしたわけではなかったが、ミチルには、秀之の中で、何か寂しそうな声が聞こえたのを感じた。それが、前に付き合っていた女性をまだ彼が引きずっているということだと、ミチルは感じた。
――ここで好きになったのなら、それは同情からかも知れない――
と思ったが、ミチルには、
――同情から好きになったとしても、それは悪いことではない――
と、感じるものがあった。だから、ミチルはその時、秀之のことを好きになったのだと思った。
ミチルが自分のことを好きになってくれたのだと秀之が感じたのも、ミチルが好きになったと感じた時と、ほぼ同時だった。もちろん、お互いにそんなことを知る由もないが、死んでしまったミチルになら分かるかも知れない。
しかし、死んだ時に、覚えていたはずの秀之が、記憶をすべて失ってしまったのも事実で、逆に言えば、一つ何かを思い出せば、芋づる式にいろいろなことが思い出されてくるに違いない。
ミチルを好きになる前に付き合っていた女性は、ミチルと知り合った時、将来結婚することになる男性に出会っていた。彼女はまだ大学生だったが、卒業と同時に結婚することが決まっていて、ちょうど幸せに上りつめる前の麓にいるようなものだった。
彼女が結婚に憧れていたのもウソではない。また、秀之と別れて、寂しかったというのも事実だろう。
彼女が結婚しようと思った相手は、彼女に対して一目惚れだった。秀之のように、自分を好きになってくれる女性だけを捜し求めるようなことはなく、誰に対してもわけ隔てのないところが気に入っていた。
本当であれば、
「私だけを愛して」
と言いたいところなのだが、どちらかが強い愛を持っていては、相手に対しての押し付けになってしまうことを、彼女は分かっていた。元々が楽天的な性格なので、お互いに同じ力の愛情で結ばれるのが一番だと思っている。そういう意味では、知り合った彼は、結婚相手にとって不足はなかったのである。
その彼女というのが、実は山崎夫婦の奥さんだった。
ここまで書くと、山崎夫婦の旦那さんは、かなりよくできた旦那に思えてくるだろうが、実際には、神経質でプライドの高いところがあった。
そんな彼だったが奥さんの前では従順になる。どんな人でも、従順になれる人が一人はいるものだと思っていた奥さんは、彼にどんな過去があったとしても、驚くようなことはなかった。
「俺は、学生時代、絵を描いていたんだよ」
筋肉質に見える彼から、絵を描いている雰囲気は想像ができない。だが、釣りをする人には、短気な人が多いと聞いた。それに似た感覚なのかも知れない。
彼の絵は、風景画が多かった。たまに風景画の中に、人を描いているように見える作品もあるが、
「これは人じゃないんだ」
と、明らかに人に見える絵であっても、頑なに否定していた。
「どうして、あなたは自分の絵の中に人間を否定するの?」
「僕は純粋に風景画を描きたいんだ。そこに人というものが入ると、僕の思っている風景画ではなくなるんだ」
「どういうことなの?」
「人や動物は動くでしょう? 僕の絵は動きのないものをずっと追いかけて描いているから、動くものが存在すると、一瞬で描きたいものが変わってしまう。それは僕の目指すところではないからね」
「あなたの目指すものって、止まっているものなの?」
「そうだよ。動いていると見誤ってしまう」
少し沈黙があり、彼がまた語り始めた。
「絵というのは、バランスがあるものなんだ。描き始めもどこから描くかで、バランスが決まってくる。僕の場合は、少しでも動いていると、一瞬でいいと思っていたバランスが崩れる場合がある。だから、僕は静止画しか描かないんだ」
理屈は通っていた。
確かに彼の絵には、静止画ならではの奥深さがある。逆に言えば、静止画というのは、バランスが命だとも言えるだろう。奥さんは、そんな彼の絵に対する考え方に共感していると言ってもいいだろう。彼女の楽天的な性格ともあいまって、彼の絵は、今までで一番清涼な雰囲気を感じさせるものだった。
「あなたの絵に一番感じるのは、壮大さなのかも知れないわ」
奥さんはそう言いながら、自分が絵に吸い込まれていくような錯覚を覚えたのに気が付いた。いつの間にか絵の中に自分が入りこんでいるのを感じていた。しかし、彼の絵はあくまでも静止画なので、絵の中に入りこんだとしても、絵を見ている人たちに気付かれることはない。
それは夢の中のことだったはずだ。夢の中というのは、
――誰も侵すことのできない、その人にとって、もっとも神秘的な場所――
という意識を持っていた。それだけに、奥さんは絵を見た時に感じた絵の中に入りこんだ錯覚が、以前に見た夢であることを悟られないようにしなければいけないという取り越し苦労を頭に描いていた。