リセット
本当は変わってしまったのは自分だったのに、その思いがあることから、死んでしまってから、秀之のことが夢の中での一瞬の出来事であったかのように思えてきて、いくら幽霊であっても、自分の中の夢の世界まで覗くことはできないのと同じで、すべて、記憶の中からも消されていたのかも知れない。
――では、今のこの思いは何だろう?
消されたと思っていた記憶が残っていて、彼の夢に入り込むことで、次第に忘れてしまっていたことを思い出そうとしているのだろうか? もしそうであれば、なぜ、こんな回りくどいことをしなければならないのか、疑問に感じられた。
――秀之という男性は、今もずっと、私のことを想い続けているのかも知れない――
と感じた。
だが、それが恋愛感情なのかと言われると、ミチルにも分からなかった。現実世界で、彼は以前から気になっていた女性と結婚していて、幸せそうに見えるではないか。ミチルには、彼の夢の世界には入ることができるが、彼が見ている側の夢には決して入ることはできない。
だが、秀之にはミチルの幽霊が夢の中に現れているのを知っていた。秀之が自分の意識の中で作り出す夢の世界のミチルとは違うミチルが存在しているのだ。それが幽霊のミチルなのだが、夢を見ながら、二人のミチルがいるようで、その正体を知る由もない秀之には、夢の中が気持ち悪くて仕方がないようだった。
蠢いているものが秀之だと感じたが、それは当たらずとも遠からじであった。
秀之の夢には表と裏が存在する。それはまるで光と影のような存在で、ミチルのいる裏の世界の夢は、最初から影のようなものなので、影の中に影は存在しないのだ。
そして、ミチルが見ている蠢いているものは、表の夢の世界を見ている秀之であり、表と裏の間に入り込んで、表の夢の世界を傍観しているその姿だったのだ。裏からは蠢いているように見えるが、表からは、きっと何も見えていないのだろう。
いや、見えているとしても、それは目が覚めるにしたがって忘れ去ってしまうもの。しかし、裏から見ているミチルには、忘れることのできないものでもある。それだけ夢の世界というのは、不可思議なものに違いない。
表の夢を見ている秀之には、まさか裏の夢にミチルが潜んでいようなどということは分からない。しかし、秀之には裏の夢の存在を、何となくではあるが感じているふしがあった。裏の夢が表の夢にどのような作用をもたらすのか分からないが、夢に対して他の人とは違った発想を持っている自分をは、少し有頂天にもなっていた。
「夢には裏の世界があって、そこにもう一人の自分が潜んでいるのさ。その自分が表の夢をいい夢にしているのか、悪い夢にしているのかを操作しているんじゃないかって俺は思っているんだ」
と、秀之は奥さんにそう話したことがあった。
「そうなんだ、でも、私はその夢の中に出てはこないの?」
「あまり出てくることはないな。やっぱり君とはこの世界でいつも一緒にいるという印象があるからね」
半分は冗談だが、半分は本気だった。
秀之にとって、奥さんは大切な存在ではあるが、頭の中にいて、どうしても離れない相手がいるのを感じていた。しかも、それは一人ではない。二人だった。一人は誰だか分かっている。その人とは、高校時代に付き合っていた相手だった。大学入学とともに別れを迎えたが、それは相手が遠くの大学に入学したからだ。
「私は、遠距離恋愛はできないと思うの」
彼女のその言葉に、秀之はあっけにとられた。
「えっ? 君の口からそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかったよ。どういうことなんだい?」
彼女は、普段から楽天的で、どちらかというと神経質なところがあった秀之にとって、ちょうどいい相手だった。しかも、正反対とも思える性格にも関わらず、彼女は、秀之の話をちゃんと聞いてくれる。
秀之の発想は、今も昔もあまり変わっていない。時々突飛なことを言い出して、まわりを驚かさるが、彼女だけは、驚くよりも前に、ちゃんと話を聞こうとしてくれる。
「秀之さんの話は、ちゃんと聞いていれば、理解できないことなんかないのにね」
と言ってくれる。
そんな彼女は、秀之にとって彼女であり、
――よき理解者――
でもあったのだ。
「もし、男女間で親友なんて言葉が存在するのだとすると、俺と君のような関係をいうのかも知れないね」
と、秀之がいうと、彼女は黙って頷きながら、笑っているだけだった。
そのことに関しては、一度も返事を返してきたことはなかった。
秀之の話を黙って聞いてはいるが、最後まで聞き終わると、
「私も話をしていい?」
という前置きの元、ゆっくりと口を開くと、結構毒の入った話をしてくれることもあった。
――本当は思ってはいるんだけど、こんなことを口にしていいものだろうか?
と思っているようなことを、彼女は平気で口にするのだ。
もちろん、相手が秀之だから話をするのだろうが、毒の入った話であるわりには、考え方は楽天的だった。そのギャップが、さらなる発想を秀之に抱かせて、会話に花が咲くことが多かった。
言いたいことを言い合える仲は、相手が異性であろうがなかろうが、親友として話ができる相手であることに違いない。話をしている時は、毒のある言葉が印象に残っているのだが、会話が終わって一段落して、会話の内容を思い出そうとすると、彼女に対しての印象は、
――楽天的な発想から来ているのではないだろうか?
と感じさせるものだった。
そんな彼女が、
「遠距離恋愛は、自分にはできない」
と言ったということは、本当に無理だと感じているのだろう。少しでも大丈夫だと思える可能性があれば、楽天的な性格から、少しの考えを最大限に広げる力を持っているからだった。
「でも、やってみないと分からないことじゃないのかい?」
と秀之が言うと、
「いつも一緒にいて、確認できるから付き合うことができるの。離れてしまうと、きっと相手のことを想うあまり、普段の生活のリズムが狂ってしまって、お互いに外れてしまった歯車が、自分たちの生活に直接影響してくると思うの。もし、近くにいれば話もできて修復もできるんだろうけど、離れていると、二人のうちのどちらかに負担が掛かってしまう。そうなると、バランスどころではなくなると思うの」
言われてみれば、当たり前の話だった。
遠距離恋愛になりそうだということになった時点で、彼女の気持ちは秀之から離れてしまったのだろうか?
秀之はなかなか彼女のことを割り切ることはできなかったが、次第に彼女が遠距離恋愛を考えた時点で、自分からすでに離れていたと思うことで、心の中が晴れてくるのを感じた。
開き直りとはまた違った感覚であったが、開き直りのように、何かのきっかけがあったわけではない。ただ、彼女の潔さが、秀之の心に響くものを感じさせただけだった。
――俺たちは、生きる世界が違うのかな?
そう思うと、未練がなかったのに、なかなか割り切ることができなかった自分が、分かってきた気がした。
――そのうちに、また俺を好きになってくれる人が現れるさ――