リセット
「私の場合はどうなのかしら?」
「楓さんは、自分の中に、二重人格的な性格を感じたことってない?」
ミチルの話はドキッとさせたが、
「私にはそんな意識はなかったわ。しいて言えば、躁鬱状態に陥ることはあるんだけどね」
「私は躁鬱状態と二重人格は違うと思っているわ」
「どうして?」
「二重人格というのは、一人の人間に二つの人格が備わっていて、一人が表に出ている時、もう一人は中に籠っている。その記憶はないのが普通でしょう? だから、二重人格の人というのは、きっと自分で本当に自覚はできないと思うの。でも躁鬱症の人というのは、躁の状態であっても、鬱の自分を意識で来たり、鬱の状態の時、躁の自分を意識できるでしょう? これが大きな違いだと思うの」
「私は、躁鬱症の時は、鬱状態と躁状態が定期的に繰り返しているような気がしているの。まるでバイオリズムのグラフを見ているような気がするのよ」
「バイオリズムがそのままその人の性格でしょう? そう思えば、大なり小なり、誰もが躁鬱症なのかも知れないと思うの。そう思うと、もう一つの仮説も出てきたわ」
「それはどういう仮説なの?」
「躁鬱症じゃない人間というのは、皆二重人格なんじゃないかって思えてきたの。つまり、人間誰しも躁鬱症か二重人格のどちらかではないかという発想ね」
「また奇抜な発想ね」
と言ってミチルは苦笑いをしたが、
「私がこの世を彷徨いながら、楓さんに惹かれたような気がしたのは、そんな楓さんの考え方に陶酔しているからなのかも知れないわ。でも、その発想を持っていてくれているおかげで、ひょっとすると私は成仏することができる日が近づいてきたような気がしてきたわ」
「そう言ってくれると嬉しいけど、私には何か見えない力のようなものが備わっているということなのかしら?」
「楓さんなら、私が成仏できない理由について気付いてくれるかも知れないって思っているわ」
「そんなこと言われるとプレッシャーじゃない」
と口ではそう言って苦笑いした楓だったが、本心では、
――まんざらでもない――
と思っていた。
しかし、本当に自分にミチルが成仏できるための何かを見つけることができるのか疑問だった。せめて、そのきっかけになることさえ見つけることができれば、後はミチルの問題のように思えた。そう思えば、少し気も楽になってくるというものだった。
その日の楓は、隣の部屋から自分の部屋に帰って来てからミチルとの会話に時間が掛かってしまい、気が付けばいつもであれば寝ようかと思うくらいの時間になっていた。だが、その日はなぜか目が冴えてしまい、そのまま寝る気にはなれなかった。
――また、夢を見ているという夢を見てしまいそうだわ――
と苦笑いをしたが、その日はなぜか、それでも構わない気がした。
ミチルはいつの間にか、楓の中からいなくなっていた。それなのに、まだ何かがいるような気がしている。
――もう一人の自分を意識している証拠なのかしら?
ミチルは楓のもう一人の自分が、限りなく今の自分に近いと言った。まるで自分の影のようである。影というものに、以前から意識を持っていた楓にとって、その存在がもう一人の自分というもっとも身近なものであったというのは意外ではあったが、その考えに至る寸前まで来ていたような気がする。
――後は扉を開くかどうか――
それだけに掛かっていたのではないか。
眠れないと思っていたのがウソのように、布団に入って考え事をしていると、いつの間にか睡魔が襲ってきていた。そのまま眠りに就いていたようだった。
楓の夢の中にはミチルが出てきた。
「ミチルちゃん?」
声を掛けてみたが、返事をしない。気付いていないようだが、その様子を見ていると、初めて自分が夢の中にいることに気付いた。しかも、ミチルから返事がないことで、夢の中のミチルが、
――自分が作り出した想像の中のミチル――
であることに気が付いた。
想像の中のミチルは何も言わない。ただ、俯いて何かを考えている。楓の知っているミチルとは明らかに違う。その表情には明るさなど欠片も残っていなかった。
それを見た時、
――ミチルは本当は孤独なのではないか?
ということを悟った。そして、ミチルが成仏できない原因を今まで、自分が好きになった人が、自分が好きだったということに気付いてくれないからだと思っていたが、ひょっとすると、その逆なのではないかと考えるようになった。
――自分のことを意識してほしいのではなくて、自分のことを忘れてほしい――
つまりは、相手に気にされ続けているので、却ってその人が気になってしまい、成仏できない。本当はこの世への気持ちを断ち切らなければいけないのに断ち切れない。この世に残った想いというのが、未練であったり、好きな人への想いであったりだとばかり思っていたが、それ以外の感情もあるのだろう。
ミチルは、自分が死んだことすらハッキリと自覚できなかったのは、死んだのに彷徨っているのは、この世に未練があるからだと思い、その未練を探して断ち切ろうという思いがあったからに違いない。しかし、それがまったく違った発想だということになると、あるはずのないものを探して、永遠に彷徨ってしまう。それが今のミチルの状況なのではないだろうか。しかも、ミチルには自分を思ってくれている人が誰なのか分からない。本当に自分が好きだった人なのかどうなのかも分からない。
楓はミチルを見ていると、今自分が考えている奇想天外だと思えるような発想でも、まだそれ以上に奇想天外な事実が隠されているような気はしてならなかった。そのことを突き止めることがミチルのためというだけではなく、自分にとっても大きく関わってくることなのではないかと思うようになっていた。
そのためには、今一度自分の気持ちをリセットさせなければいけないと思っている。今は夢の中だが、そう思うことが今後の自分に大きな影響を与えることになるだろう。定期的に起こるリセット、いつのことになるのだろうか……。
第三章 錯誤
――あれから一体何年経ったというのだろう? 俺の中に残っている女がなかなか消えてくれない。確かに俺はあの日、一緒に会う約束をした。その時の彼女の表情は、思い詰めていたのが分かった。俺は彼女のために何もしてやれないんじゃないかって思った。何かを求められても、叶えてあげられないと思う。それなのに、彼女に会いたいと言われて断ることをしなかった。何もできるはずもないのに……
倉沢秀之は、何度そんなことを考える夢を見たのだろう。それまで夢を見るとすれば、自分の意図とは関係なく、情景だけが勝手に流れていき、ただそれを傍観しているだけのことが多かった。ほとんどそうだったと言ってもいい。
「夢というのは、覚えていることの方が稀なのさ」
と言っている人がいた。
確かにたまにしか夢を見ていないような気がする。さらに、
――何かの夢を見たような気がするんだけどな――
という思いに駆られるが、夢の内容はまったく覚えていないし、思い出そうとしても思い出せるものではない。
やはり、夢というのは、
――目が覚めるにしたがって忘れていくものだ――