リセット
そう思うと、死ぬことというのが、どういうことなのか、楓には分からなくなった。確かに、
――痛い、苦しい――
という極度の苦痛を伴って死ぬものなので、死ぬことがどういうことかということよりも、目先の苦しさに耐えられるかということの方が切実に感じる思いのはずである。しかし、自殺を考えている人を説得するのに、たいていは、
「死んだら、何もならない。生きていればまだまだ楽しいことがたくさんある」
などと言って説得するが、本当は、
「死ぬのは苦しいわよ。嗚咽に脱糞、格好悪いったらありはしない」
という方が、よほど切実に感じられる。
ただ、そういう説得は、する方も苦しみを感じるのではないか? まるで自分にも死が迫っているかのように思えてしまう人もいるだろう。そう思った時、
――私も、本当は死を覚悟したことがあったのかしら?
と感じた。
すると、自分の中の何かが反応したような気がする。
「そうよ。そんなあなただから、ミチルちゃんがあなたに近づけたのよ」
それは、自分の心の声だった。
「どういうこと?」
「ミチルちゃんは、自分が死んだということを、いまだ理解できていない。その理由もさることながら、本当に自分が死んだのだということすら、信じられないでいるのよ。きっと何かショックなことがあったのかも知れないわね」
「そこまで分かっているの?」
「ええ、でも、それ以上のことは分からない。でも、それはあなたにも言えることなのよ。あなたにだって、ちょっと考えを変えれば、ミチルちゃんの気持ちが分かるはずよ」
「えっ、私に分かるというの?」
「ええ、私はあなたのことなら大体分かるわ。あなたなら、ミチルちゃんの気持ちが分かるはずよ。私よりも分かるんじゃないかしら? だって、ミチルちゃんと向き合ってお話をしているのは私じゃない。あなたなの。そのことを自覚してごらんなさい」
そう言われて、少し俯いて考えてみた。
――私は今までに自分の心の声と話をしたことがあったような気がする――
それがいつだったのか、ハッキリと覚えてはいないが、確か苦しみが終わった後だったような気がする。
しかもその苦しみというのは、自分が望んだ苦しみで、その壁を超えられなかったように思えた。
――完全に忘れていたけど、思い出してみると、いろいろなことが見えてくるような気がするわ――
とは言っても、完全に思い出したわけではない。
なぜかというと、その時と今とでは、現実的にも精神的にも、環境が違っているからに違いない。
そう思うと、その時の環境というのは、楓が苛めに遭っていたあの頃のことだったのではないだろうか。
――ということは、子供の頃?
楓は、一度自殺を試みたことがあった。確実に死ねる方法ではなく、子供の浅はかな考えの元、今から思えば、本気だったとは思えないほどであるが、確かに死のうという気持ちでいた。
もちろん、こうやって生きているわけだから、死に切れなかったのは間違いない。子供の発想なので、死の向こうに何があるかなど、考えもしなかっただろう。もし、大人だったら、死に切れたかも知れない。でも、死ねなかったことで、死のうとした自分の意識が、そこでまたしてもリセットされたのだ。
――私って、時々頭の中をリセットするようにできているのかしら?
と感じた。
都合の悪いことは忘れてしまったり、意識をリセットする。それで精神の安定を図ってきたのだとすると、そこには、まるで脱皮をしながら生きている動物の本能のようなものを感じるのだった。
だから、楓は人の死について、時々冷静で、しかも冷徹に見ることができる。
人が自殺しようとしている人への説得に、きれいごとを並べているのを聞いて、
――それっておかしいんじゃない?
という思いを抱きながら、それを口にすることもなく、また、そんなことを考えているなど、まわりに悟らせないようにしていた。
しかし、本心では、
――自分が考えていることを分かってくれる人が一人でもいればいいのに――
と感じてもいた。
もし、そんな人がいるのであれば、その人は自分のよき理解者であり、親友と言える人になってくれるような気がした。
ただ、楓はこの「親友」という言葉はあまり使いたくはない。他の人が使っている「親友」という言葉は、楓が考えている「親友」という意識に比べて、軽い気がしていた。
――他の人が使う「親友」という言葉に対する相手は、平気で人を裏切る人もいるような気がする――
つまり、親友であっても、全幅の信頼を置くことはできないということだった。
――信じれば裏切られる。一体誰を信じればいいんだ?
と考えていた。
いかにも自分の気持ちを分かってくれているように見える人は、こちらの都合のいいことしか言わない。その方が付き合いやすいし、角も立たない。それでは、相手の考えていることの奥は見えてくるはずもない。薄っぺらいものに感じられるからだ。そういう意味では親友などという言葉は、楓の中ではありえないものになっていた。だから、楓は「親友」という言葉は嫌いなのだ。
楓は、余裕を持つと甘えてしまうところがあったが、それは人に甘えるわけではなく自分に甘えていたのだ。もう一人の自分の存在を分かっていて、もう一人の自分なら何とかしてくれると思っていたのだ。
もう一人の自分が現れず、今までは何とかなってきた。それは、何も言わずとも、もう一人の自分が望みを叶えてくれたからだと思っていた。
しかし、そこにも限界があるのか、いつも完全に叶えてくれることはない。それを当然のように思ってきた。
望みを叶えてくれるのも、限界があるというのも、どちらも当然、だから楓の前に現れることはなかった。
しかし、今回は現れた。きっと、もう一人の自分がいる場所に、ミチルという女性の侵入を許してしまったからなのだろう。本当なら煩わしい侵入者であるにも関わらず、ミチルの気持ちを分かれと言う。さぞや、もう一人の自分とミチルは、自分としたよりも、もっと深いところで話をしたのだろう。いや、ひょっとすると、まったく違った話になったのかも知れない。それを感じたもう一人の自分が、わざわざ現れて、自分に分からないことでも分かっているはずだと告げたのだろう。これは助言として受け取るべきだと思えてならない。
ミチルが自分が死んだということを、今さらながらに自覚しようとしている。それは成仏したいからなのか、自分が師を受け入れないことで、何かが自分の意に反した世界が広がっているように思えたのかも知れない。
ミチルが話し始めた。
「私、死んだという意識が最初になかったのは、生きている時と、まったく意識が変わらなかったからなの。もちろん、肉体がなくて、自分の声は誰にも届かない。私を見ることもできなければ、私の気持ちを伝えることができない。これが、いわゆる幽霊というやつよね」
「そうね。この世を彷徨っているということは、何かに未練を残しているということよね」