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「そうかも知れないわね。でも、時間だけが解決してくれたわけではないような気もするんです。それにあれほど彼女のことを頭の中から消し去ろうと思ってはみたものの、結局消し去ることはできなかったんですよ。今では、ほとんど思い出すこともなくなりましたけど、やっぱり知り合いが自殺したということは、そう簡単に自分の記憶や意識から抜けてくれることはないんですね」
「旦那さんは、その時奥さんに何か声を掛けてくれたんですか?」
「これと言ったことは何も言わなかったんですけど、却ってその方がよかったのか、次第に彼が私のそばにいてくれていることを意識するようになったんです。それだけ寂しかったということなのかも知れませんね」
「こういう言い方は変なのかも知れないけど、付き合っている時、他に何か障害になるようなことがあった方が、結びつきが深まるとお互いに感じていたのかも知れないですね」
「それはあるかも知れません。ただ、優しいだけとか、甘えられるだけだというだけでは、なかなか長く付き合っていられるものでもありませんからね」
「学生時代からということは、お付き合いも結構長かったんでしょうね」
「夫とは学生時代に付き合っていて、就職してから遠距離恋愛になったんですけど、やっぱり遠距離というのはなかなか続かないもので、一年ほどで別れたんです。でも、彼がまた転勤で近くに戻ってきて、連絡を貰ってからは、また付き合い始めるようになったんですね。それから結婚まで、四年くらいでした」
「四年というと、長いような気がしますけど」
「確かに長いかも知れないわね。でも、私は彼と一度別れていたので、その時の方が長かったような気がするんです。別れていたのは三年ほどだったんですが、それだけにその後の四年というのは、そんなに長いという印象はありません」
「一日一日は長く感じるけど、一年の単位になるとあっという間だったと感じたり、逆に一日一日があっという間だと思っていたのに、一年経ってみたら、一年前が遥か昔だったりなんて思い、したことあります?」
「ええ、結構しているんじゃないかって思っています。子供の頃は毎日が長く感じられたのに、一年を思うとあっという間だったような気がします」
「それは私も同じです」
 楓がそう感じるのは、苛めに遭っていた時期があったからだと思っている。ということは、
――この奥さんも、昔は私と同じように苛めにあった記憶があるのかしら?
 聞いてみるにはあまりにも失礼なので聞かなかったが、会話をしながら、そのつもりで話をしていると、おのずと聞きたいことが分かってくるような気がした。
 苛めに遭ったことがある人には、話題に触れなくても、どこか通じるところがあるものだ。お互いに、
――触れたくない過去の傷――
 と思っている以上、どこかに接点があったりする。
「見たくないものほど目についたりするものだ」
 という話を聞いたことがあるが、まるで傷の舐め合いになりそうで、触れたくないと思いながらも気づいてしまうのは、悲しい性と言ってもいいだろう。
 楓は、子供の頃、ピアノを習っていた。苛められていた時でもピアノを弾いていると気分転換になったのはよかったと思っている。友達の中には親から強制的に習わされている人もいたが、心の中で、
――時間の無駄じゃないの?
 と、優越感に浸っていたのも事実だった。
 ただ、苛めを受けていた影響で、人と争うという意識には乏しく、コンクールに出てもそれほど貪欲でもなかったので、成績はそれほどいいわけではなかった。競争意識という観念があまりなかったのだ。
 中学に入ると、ピアノを習うことを止めてしまった。もし、苛めがなくなってからもピアノを習っていたとすれば、
――結構、競争意識を持っていたかも知れない――
 と思った。
 競争意識を持ったからと言って、もっと上達できたかどうか分からないが、少なくとも、ピアノをずっと続けることになったように思えた。中学に入って止めてしまってから、ピアノを弾くことは止めてしまった。今では弾けるかどうかすら、怪しいものだった。
「アルトサックスは、今でも続けているんですか?」
「今はもうやっていません。夫と結婚することが決まってから止めました」
「それはどうして?」
「夫がギターを弾いていたというのは先ほど話しましたが、夫は就職してから、ギターを止めたんです。仕事を優先したということでしたけど、そんな夫を前に、私だけ楽器をやっているというのはまずいんじゃないかって思ったんですよ」
「でも、音楽を聴くことだけはやめていないんですね?」
「ええ、クラシックが好きな夫も、音楽を聴くことはやめていませんから、気分転換をしたい時には、夫も部屋の中で自分でクラシックを掛けたりしているんですよ。音楽を聴いていると、時間が経つのを忘れますからね」
 部屋の中で流れているクラシックを聴いていると、懐かしさが感じられた。中学までピアノをしていたこともあって、クラシックは子供の頃から聴いていたのだが、その時に感じた思いは、
――自分から聴こうと思って聴いたというよりも、誰かクラシックが好きな人のそばで、安心感を覚えながら聴いていたような気がするわ――
 というものだった。
 一緒に聴いていた相手というのが男性であることは分かっていたが、楓はそれが誰だったのか、まるっきり見当が付かない。
――私の中にいるミチルちゃんが感じていることなのかしら?
 と思い、自分の心の中に聞いてみた。
 先ほども、ミチルの存在に気付き始めてから、自分の心の中に問いただしてみると、ミチルが答えてくれたような気がしたので聞いてみたのだが、今度は何も返事が返ってこなかった。まだミチルがいる感覚は残っているので、ミチルにとって答えたくないことのように思えてならなかった。
――自殺する原因になった彼のことを考えているのかしら?
 そう思っていると、楓は今までに見たことのない光景が目の前に広がっていくのを感じた。ただ、本当に初めて見る光景なのか疑問に感じ始めていた。見たことがないはずなのに、どこか懐かしさを感じるからだ。
――どこかで見たような――
 と、それがどこで見た光景なのかを思い出そうとした時、さっきまで目の前に広がっていた光景が、頭の中から消えてしまっていた。
 起きているのに、夢を見ているような感覚に陥ることが、今までにもあった。目を開けて前を見ているはずなのに、見えている光景とは別の光景が頭の中に湧いてくる。今までは湧いてきた光景に対して、明らかに以前に見たことのある光景だったのに対し、今度は懐かしさは感じるが初めて見る光景だった。
――ミチルちゃんが頭の中に抱いている光景なんだわ――
 そう思うと、懐かしいと思ったのに見たこともないと思った光景が頭の中から消えたのは、ちょうど、聞いていたクラシックの音楽が別の曲に変わった瞬間だったような気がした。
――目の前に見えていた光景は、クラシックの音色が生み出した光景なのかも知れない――
作品名:リセット 作家名:森本晃次