リセット
まるで自分が奥さんを追いつめているように感じたからだ。
「私ね。時々、自分の夫が他の女性と一緒にいる夢を見ることがあるの」
奥さんが何かに不安を感じているとは思っていたが、まさかそんないきなり核心をつくような話になろうとは思わなかった。
楓は何と答えていいのか分からずに黙っていると、
「まだ、独身のあなたには、この不安は分からないかも知れないわ」
確かに独身だし、彼氏に疑いを掛けて嫉妬するほど好きになった男性がいるわけでもなかった。
今までなら、そう言われても別に気にすることはなかったはずなのに、胸の奥から、何かこみ上げてくるものを感じた。
――やっぱり、私の中にミチルちゃんがいて、会話に反応しているのかしら?
と思うようになっていた。
ミチルは、決して表に出てこようとはしなかった。ただ、一つ気になるのは、自分の中にミチルがいないという意識を持っている時、ふいに奥さんを見ていると、まるで別人に思えてくることがあった。
――子供っぽいところがある――
と感じるところだったが、確かに、奥さんは幼さが雰囲気から滲み出ているところはあったが、会話していると、思っていたよりも大人の雰囲気を漂わせ、
――このギャップが男性を惹きつける魅力なのかしら?
と感じさせた。
楓は、自分なら絶対に好きになるタイプではないと感じていたが、それは自分が女性の目としてしか見ていないからそう思うのであって、男性の目で見るとどうなのか、疑問に感じるところだった。
子供っぽさは、会話を始めた時には感じることがなかったのに、途中から時々感じられた。ちょうど楓が、
――自分の中にミチルがいるのかも知れない――
と感じ始めた時で、最初は、
――ミチルちゃんが、私にそんな感じを受けさせるように仕向けているのかしら?
と感じたが、
――何のために?
と思うと、理由がまったく見つからない。そんなことをして、ミチルに何のメリットがあるというのか、それよりも、奥さんの中にも誰か霊が乗り移っているのかも知れないと思う方が、今の楓にはよほど自然に感じられた。
「その夢は続けて見たりされたんですか?」
「いいえ、一度きりだったんですけど、その時夢の中で、もう一人の自分を感じたんです。でも、すぐに否定したんですけどね」
「どうして、すぐに否定したんですか?」
「最初に見た時は、本当に自分だって思ったんですけど、主人公の自分を見る目を感じた時、自分がこんなに恐ろしい目をするなんて信じられないと思うほどの顔をしたんです。そう、まるで断末魔の表情っていうのかしら」
奥さんはそこまで言うと、背筋をブルッと震わせた。
奥さんの口から、
――断末魔の表情――
などという言葉が出てくるなど、雰囲気的に考えられなかったが、その時は別に不自然さを感じなかった。さっき感じた不安そうな表情も、思い詰めたような表情も、感じてこないのだ。
――私の中のミチルちゃんが感じさせないのかしら?
ミチルがいるという感覚がどんなものなのか、少ししてから、自分の身体が急に軽くなったのを感じた。
ということは、重くなった時もあったということなのだろうが、そんな感覚はなかった。考えられることとすれば、重くなった時というのは一気に重くなったわけではなく、ゆっくりと段階を踏んで重くなってきたということであれば、分からなくもない。ミチルが入ってくる時は、ゆっくりと入ってくるのだが、抜ける時は一気に抜けているのかも知れない。そのようにしかできないのか、それとも、何かの意図を持ってそうしているのか、楓には分からなかった。
「旦那さんが、一緒にいた女性というのは、どんな人だったんですか?」
「顔はよく分からなかったんだけど、夫が私の見たこともないような顔をしたのが印象的だったんです。でも、それは本当に楽しそうな表情だったのかって言われると、そうでもないように見えたんですよ」
普通、不倫している男性は、自分の奥さんには見せたことのないような表情を不倫相手に見せるというのは、楽しい表情だと思っていたが、それだけではないのかも知れない。
「どんな表情だったんですか?」
「最初は分からなかったんですけど、夫の気持ちを考えているうちに分かってきました。その時の夫は、『癒されている』という表情をしていたんです。私と一緒にいては癒されない思いを、その人に求めて、その人が答えてくれているような気がしたんです」
結婚していない楓には、その気持ちは分からないが、話を聞いているうちに感じたことは、
「奥さんが気にしているのは、その表情を見たからなのかも知れませんね」
とは言ったものの、
――奥さんには求められないものをその人に求めている――
と、喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込んで、それ以上のことは言わなかったが、当たらずとも遠からじであることに違いはないだろう。
「私の考えすぎなのかも知れないと、何度言い聞かせてみたんだけど、何度も夢に見ると、さすがに言い聞かせるのは無理だって分かりました」
「無理をすればするほど逆効果ということもありますよ。あまり気になさらない方がいいのかも知れませんね」
楓は慰めるつもりで言ったが、当たり前のことを当たり前に言っているだけの何もできない自分が情けなくも感じたが、その一方で、どこか他人事だと思っている自分にも気付いていて、その両方が精神のバランスを取っているのだと思えた。
「そうですね、楓さんのおっしゃる通りなのかも知れません」
二人は、しばし会話を断って、コーヒーを飲みながら、音楽を聴いていた。
「私、学生時代には吹奏楽部でアルトサックスを吹いていたんですよ」
室内にはクラシックが流れていた。
「アルトサックスですか、いいですね。私は音楽には、あまり興味がなかったので分からないんですが、今から思えば、何か楽器を一つくらいできていれば趣味が広がったような気がしています」
本当は違ったが、なぜか、奥さん相手に、楽器をやっていたことを、少し黙っていようと思った。
「夫とは、その頃に知り合ったんですが、夫はギターが弾けるので、音楽を共通の話題にして話をしているうちに、付き合うようになったんです」
奥さんは、旦那さんと知り合った頃を思い出しているようだった。
「その頃、私の友達が亡くなったというのを聞いた時、夫と付き合うのをやめようかとも思ったくらいショックが大きかったんです。その人と友達だったということを頭の中から消し去ろうとしたくらいですからね。でも、今から思うと、どうしてそこまでのショックを感じたのか、ハッキリと分からないんです。ひょっとすると、自分が彼女の立場だったら、私も彼女のように死を選んでいたかも知れないと思ったからなんじゃないかって思ったこともありました」
「確かに、知り合いが自殺したということを聞くと、精神的に穏やかではいられなくなるものだと思いますけど、まわりの人を見ていると、時間が解決してくれているように思います。奥さんもそうだったんですか?」