リセット
もし、自分に見切りをさっさとつけてしまったのだとすれば、また新しい人を見つけて、自分を取り戻そうとしているのかも知れない。さっきは裏切り行為だと思ったが、元々、何かを約束したわけでもなく、勝手に、楓の方が気になっていただけのことだった。熱くなっているのは楓の方で、ミチルの中ではとっくに楓に対して冷めていたのかも知れない。
それにしても寂しい話だ。ミチルが、楓の前に出るのと、奥さんの前に出るのとどちらが早かったにせよ、もし、本当に奥さんの前に現れて、話をしたのだとすれば、一人、幽霊と話をしたことがあるなどと思って、
――自分は他の人と違うんだ――
と感じていたとすれば、何とも恥かしいことだった。ミチルのことを口にしたのは余計なことだった。
だが、これはあくまでも楓の勝手な発想だった。奥さんの態度から、
――幽霊を見たことがあるんじゃないか?
と思っただけで、もし、幽霊を見たとしても、それがミチルであるというわけでもないだろう。
確かに、化けて出ることができる幽霊がそんなにたくさんいるというよりも、ミチル一人が何人かの前に現れたと思う方が、遥かに可能性としてはありえることだった。元々、幽霊の存在自体が、
――ありえないこと――
なのだから、ミチルの存在を見てしまった時点で、楓の発想はすでに常軌を逸していると言っても過言ではない。
――奥さんは、幽霊の存在に関わらず、何か他の人に知られては困る何か秘密を持っているのかも知れない――
と勝手に思いこんだ。だからこそ、楓に話を合わせることを戸惑ったのかも知れない。では、
――それだったらなぜ奥さんは、楓と話をしようと思ったのだろう?
と感じた。一人になりたくなかったという思いもあり、自分が抱えている何か同じものを楓の中に感じたのかも知れない。
その時、楓はハッと感じた。
――私って、こんなに疑り深かったのかしら?
どちらかというと、人の話を真に受けてしまうようなバカ正直なところがある楓だった。なぜ自分がバカ正直なのかということも、自分では分かっているつもりだった。
――いつも、まわりの人は自分よりも上なんだって思っているからだわ――
時々、自分が一番だと虚勢を張ってしまうことがあることで、なかなか気付いていても自分の中で認めたくない性格、それが、自分がまわりの人より劣っているという思いだった。
そんな思いをするようになったのは、やはり子供の頃に苛められていたという思いが強かったからなのかも知れない。自分がどうあがいても、超えることのできない壁のようなものがあって、その壁のために、たまに虚勢を張ってみたり、人と話をしている時には、相手の話を鵜呑みにしてしまう自分がいる。
壁を作っているのは自分本人なのに、それをまわりのせいにして、逃げている自分を感じた時だけ、まわりに対して虚勢を張ってしまう。自分が非を認めたということを、まわりの人に知られたくないからだった。
――壁って一体何なのだろう?
自分とまわりの人の間に壁があるのは分かっているが、時々、自分の中にも壁を感じることがある。そんな時ふと、
――自分の影が存在していないかも知れない――
光がなければ、影は存在しない。つまり、影を存在させないために、光を遮断する壁を自分自身が作ってしまっているという考えだった。その壁が自分に及ぼす影響は、鬱状態への直行便だった。影が存在していないことを感じた時、楓は自分が何をやっても、何を考えても、うまく行くはずなどないと思い始める。
人と話をするのが嫌になり、まわりの人が小さな世界で踊らされているように思えてくるのだが、自分はそんなまわりの人から比べても、さらに小さな世界の中で蠢いているのを実感すると、考えることをやめてしまおうと思うのだった。
普段の楓は、何も考えていないように見える時ほど、何かを考えている。頭が考えのスピードについてこれないことで、感覚がマヒしてしまい、まわりからは、ボーっとしているようにしか見えないだろう。楓は自分の世界に入りこみ、抜けられない自分を感じていた。
鬱状態になると、自分の世界に入りこんで抜けられない自分を感じてはいるが、頭の中が高速回転で思考しているわけではない。漠然と流される中で、思いつくことは悪い方にしか向いていない。そんな状態を自分では鬱状態だと思っていた。
――鬱状態に陥る人は、多少の誤差はあるだろうが、皆同じような状態にいるのかも知れない――
と楓は感じた。
それを感じることができるのは鬱状態の時だけで、鬱状態の時に何も考えていないわけではなく、鬱状態から抜けると、忘れてしまっているから、何も考えていないように思うのだ。
――まるで夢の中のようだ――
何度も鬱状態に陥っていると、さすがに頭の中が整理されてきて、鬱状態と夢の中の状態とが似ているような気がしてくることを感じるようになってくる。
楓は、鬱状態に陥っている友達を何度も見たことがあったが、その心の奥まで覗くことはできなかった。きっとまわりの人も楓が鬱状態に陥っていることを察したとしても、その心の奥まで覗くことは困難であるに違いない。
「鬱状態に陥った時、まわりの誰とも話をしたくなくなるのって、誰も同じことなのかしらね」
と、友達から聞かれたが、楓も同じ疑問を抱きながら、人に聞いてみたことはなかった。
「そうね、私も同じようなものかしらね」
それ以上は言わなかったが、本人はぼかしたつもりだった。しかし、相手にはどのように伝わったのか疑問である。不思議そうに怪訝な表情をしたかと思うと、すぐに満足げな表情になったが、どっちが本心なのか分からない。楓も鬱状態の時に人を観察していると、きっと怪訝な表情を浮かべていることだろう。その表情を見て、まわりの人から、
――この人は鬱状態に陥っているんだわ――
と思われているに違いない。そんな時は、表情だけではなく行動に関しても、挙動不審になっているに違いない。
奥さんに対して疑り深く感じていたのは、自分も考えていることがおかしいということを自覚させないようにしていたからなのかも知れない。
――ミチルは人に乗り移って、自分の思っているように行動させることができるんだ――
と、感じたが、それにしては乗り移った相手に悟られるというのは、若干、彼女に備わっている力というのも、微妙な感じがしてきた。
――いや、意外と幽霊が持っている力というのも、案外そんな程度のものなのかも知れない――
と感じた。
自分たちが想像を膨らませ、できることできないことを勝手に想像することは、一種の妄想と言ってもいいだろう。幽霊に乗り移られたことがある人は楓以外にもいるのだろうが、そのことを他の人に話すことは誰もしていない。
――呪い殺されては困る――
と思っているからだろう。
昔話などで、
「誰かに話してはいけません」
あるいは、
「決して見てはいけません」
などと言われて、言いつけに背いたためにその人の末路が悲惨なのは、周知のことだ。昔話というのは、
「いけません」