リセット
奥さんにとって、この部屋は新婚生活を営む部屋として新鮮なものだった。夜の生活にも満足していたし、夫は十分に愛してくれている。
しかし、どこか物足りないものがあった。寂しいはずなどないのに。どこか寂しさを感じていたのだ。
奥さんは、結婚することが決まってから、会社を辞めた。結婚してこのマンションに引っ越してくる半年前から、仕事をしていない。元々仕事には満足していて、仕事をしている自分が眩しく見えるくらい、楽しかったのだ。
それでも結婚を機に、仕事を辞めることになったのは、奥さんにとっての大きな節目だった。
――そろそろ新しいことをするのもいいかも知れない――
仕事が楽しいと思っている人間にとって、専業主婦は結構退屈なものだという話をよく聞かされていた。しかし、主婦という仕事もそれなりに忙しいという話も同時に聞いている。
――どちらが楽しいのだろう?
という思いを抱いたら、その二つはまったく違うものとしてしか判断できなくなってしまう。奥さんは、
――主婦の仕事も、会社でやっていた仕事も、どちらも同じ仕事なんだわ――
と思うようにしていた。この二つを分けて考えるから、面白くないのだ。奥さんの考えは的を得ていた。実際に主婦業を勉強してみると、それなりに楽しい。特に今まであまり興味を持っていなかった料理だったが、実際に本を読んでいろいろ勉強してみると、奥が深く見えてきて、結構楽しい。会社を辞めてから主婦業を勉強していく中で興味を持った料理だったので、これを機会にお料理教室にも通い始めたほどだった。
最初は、期間限定でもいいと思って、結婚するまで料理教室に通おうと思っていたので、結婚してからすぐに辞めてしまった。半年間だけであったが、結構充実した時間だった。今までに感じたことのなかった楽しい時間だったことは間違いない。
新婚生活に入り、主婦業を始めると、
――なるほど、確かにやることはいろいろあって、自分の時間が意外と少ないくらいだわ――
と感じていた。
もちろん、充実はしていたが、充実しながらも近所づきあいは大切にしていこうという思いも持っていた。
最初の頃は、マンションの他の住民とも出会うこともあって、挨拶を交わしていたが、途中からピタリと他の住人に会わなくなった。
会わなくなって最初はあまり気にならなかったのは、主婦業で忙しかったからだが、主婦業にも慣れてくると、誰とも出会わないことに疑問を感じるようになっていた。
それまで感じることのなかった違和感を感じたからだったが、その違和感がどこから来るのか、すぐには分からなかった。
違和感というのは、漠然としたものであって、それがハッキリしてくるとすでに違和感ではなくなってくる。しかし、その時の奥さんは、理由が分かってきたにも関わらず、相変わらずの違和感を感じていた。そこには、ゾクッとしたものがあり、冷たさを感じたからだった。
奥さんが、感じた違和感の一つとして、引っ越してきてから半年ほど経った秋の頃だった。
あれは、それまで暑かったと思っていた日々だったのに、急に秋めいてきて、さらに寒さを一気に感じるようになった時のことだった。
部屋の扉を開けて、中に入ろうとした時、感じた足元からの冷たい風に、奥さんはゾクッとしたものを感じた。それまで霊感の類を感じることはなかったはずなのに、その時に限って、
――何か幽霊でもいるんじゃないかしら?
と感じたのだ。しかし、すぐに、
――そんなことはないわ――
と自分の考えを打ち消した。
同じような考えを、まさかその後に引っ越してきた隣の住人である楓が感じていようなどと、当然思いもよらなかった。もちろん、楓の方も、まったく同じ思いを奥さんがしているなど、その様子から、想像もできなかった。まったく違うイメージを持っている二人には、最初から共通点のようなものがあったのだ。
ただ、楓には自分と同じような思いを感じている人は自分だけではないことは分かっていた。他にもいるのは分かっていたが、まさか隣の奥さんのように、天真爛漫に見える女性が同じような感覚に陥っていたなど、想像できるはずもなかったのだ。
そういう意味では、
――人は見かけによらない――
ということなのだろうが、そのことは分かっているつもりでも、そう無限に可能性を考えられるわけではない。
――同じような性格の人が、意外と自分の近くに集まってくる――
という発想もまんざらではない。このことは、短大時代に何度か感じたことで、今でも楓の中で意識としては残っていることだった。
――幽霊にも言えるのかしら?
ミチルに対して、彼女の身になって考えてみようと思うようになっていたが、本当にできるかどうか、少し疑問ではあった。さすがに相手が幽霊では、話しからでしか想像ができないからだ。
奥さんは、他の人となかなか出会わないことを少しの間気にしていたが、しばらくすると他の人と出会うようになり、そんなことを考えていたことすら忘れてしまっていた。幽霊がいるかも知れないということも忘れてしまっていて、忘れてしまった時から、奥さんの頭の中はリセットされていたようで、また、結婚した当初の頃を思い出していた。楽天的な性格だと言えばそれまでなのだが、細かいことが気になると、なかなか抜けないものだ。それを神経質な性格だと思い、自分でも嫌なところだった。人から指摘されるのも嫌だったが、いつも何とか最後は帳尻を合わせられる性格が功を奏してか、あまりまわりから指摘されることはなかった。
そのあたりは楓に似ていた。奥さんが、どこか神経質に見えたが、楽天的な性格もすぐに分かった。どちらかというと、奥さんに対しての目は本人の思惑とは逆で、神経質に見られがちだったため、楽天的な性格は隠れていた。それなのに、すぐに楽天的な性格に気が付いたのは、二人の間に共通点が多いところだったからかも知れない。
楓が仕事から帰ってきたある日、隣の奥さんと玄関先でバッタリと出くわした。
「今お帰りですか?」
と訊ねられ、
「ええ、今日は半休だったもので」
楓も久しぶりに同じマンションに住む人に出会えたことは安心できることだった。
「おいしいコーヒーをいただいたので、少しだけいかがですか?」
ニッコリと微笑んで、奥さんが誘ってくれた。
ミチルのこともあって、ほとんどまわりのことが見えていなかった楓だけに、久しぶりに他の人とコーヒーを呑むというのもいいような気がした。ミチルのことは最初こそ、
――自分が何とかしてあげないといけない――
と思っていたが、最後はミチルでないとどうにもならないことであった。まずはミチルが自分のできるところがどこまでなのかを見極めることが大切だと思い、必要以上にミチルに干渉しないようにした。ただ、それでも精神的なところでは相談に乗ってあげるのもいいと思い、話を続けているが、一つの意見としてミチルが受け止めてくれているかどうかが疑問だった。深く考えすぎても堂々巡りを繰り返すだけであろうし、ミチルが自分とは違う人間であるという意識を持っていなければ、楓もまともに意見もできないだろう。