リセット
そういえば、自分が高校生の時、交通事故に遭った同級生がいて、彼女が一時期、軽い記憶喪失に掛かっていたことがあった。事故に遭うまでは本当に天真爛漫な性格だったのに、事故に遭ってから、
――こんなに変わってしまうの?
と思うほど、目は踊っていて、いかにも不安そうな雰囲気は、それまでの彼女からは信じられないものだった。
医者からは、
「軽い記憶喪失状態で、一時的なショックによるものだから、すぐに記憶が戻ると思うよ」
と言われて、実際に記憶はすぐによみがえってきた。
そして、記憶が戻ってきた瞬間から、元通りの彼女に戻っていた。まるで、それは記憶を失っていた時期の記憶がないような感じだった。きっと彼女に記憶喪失になっていた時のことを聞くと、
「えっ、ウソでしょう? 私が記憶喪失になっていたなんて、私には自覚もないし、信じられないわ」
と答えるに違いなかった。
ということは、ミチルも自殺をした時の記憶が戻ってくると、その後の記憶が消えてしまうのかも知れない。楓のことも記憶から消えてしまっていて、覚えていないことになるだろう。
――でも、その時はミチルちゃんに会うことは、もうできないはずだわ――
それはミチルが成仏しているという証拠になる。
それはそれで悲しい気がしたが。それは今、ミチルを目の前にしていて考えている感傷的な気持ちになっているからだ。ミチルを見ていると冷静な自分を感じるが、決してそうではない。本心は感傷的な気持ちになっていて、ミチルに対して、これ以上ないと思えるほどの同情を抱いているに違いない。
そうでもなければ、幽霊の存在など信じられるわけではなく、ミチルの存在に怯えているか、完全に夢だとして割り切ろうとするに違いない。
――そもそも、ミチルちゃんが私の前に現れるはずはないんだわ――
冷静に見ることができて、それでいて感傷に浸ることのできる楓のような女性はなかなかいなかったに違いない。そんな楓だからこそ、ミチルのことが見えていて、ミチルの存在を信じられるのかも知れない。他の人にミチルのことが見えるのかどうか、それも一つ興味深いことだった。
――ひょっとして見えてはいるけど、何も言わなければ普通の女の子。誰がミチルちゃんを幽霊だなんて思うかしら?
と感じていた。
――ミチルが好きになった男の子は、果たしてミチルのことが見えるのだろうか?
彼がミチルのことをどれほど意識していたかということにも繋がってくる。
「ミチルちゃんが好きになった男の子に対しては、片想いだったのよね?」
「私、今まで男の人を好きになったという意識があまりないの。その人が初めてだったような気がするわ」
――同じじゃないか?
と楓は感じた。
自分も、好きになった男性は片想いをしたその人だけで、告白なんてできなかった。状況だけを見てみると、ミチルと何ら変わりはないように思えた。
ただ、精神状態が同じだったのかどうか、楓には分からない。
「楓さんも、私と同じだったようね」
「えっ」
「私、生きている頃はそんなことなかったんだけど。今、楓さんと話をしているだけで、楓さんがどんな人なのか分かってきたような気がするんです」
それが幽霊としての特徴なのか、それとも、死んでしまって魂だけになったことで、話をしているだけで相手の気持ちを吸収できるだけの場所を自分の中に持てるようになったのかも知れない。何か目に見えない仮想的な領域を感じるのだった。
人間はなまじ肉体があるから、どうしても、限界を感じないわけにはいかない。
逆に限界がないと、不安になってしまう。
――そういえば、果てしないものに対しては、恐怖の方が先に立っていたわ――
楓の記憶の中にある果てしないものとしては、子供の頃に行った縁日で、ミラーハウスというものに入ったことがあった。そこはまわりがすべて鏡になっていて、鏡の迷路で会った。お化け屋敷よりも怖かったという記憶があるのだが、それは、ミラーハウスに入ると、そこには無数の自分だけが映し出されている。
――どこまで行っても自分が果てしなく繋がっている――
そんな光景に恐ろしさを感じていたが、子供心には漠然とした恐怖しかなかった。今では果てしなさが怖いと分かるのだが、逆に分かってしまうと、余計に恐ろしさが増してくるような気がした。子供の頃の漠然とした恐怖は今でも忘れられない記憶として、楓の心の奥に封印されていた。
逆にミチルには肉体がないことで、果てしなさへの恐怖はないようだ。だからこそ、相手を見ていて、相手の気持ちになって考えることができるのだ。それが肉体を持った人間には、果てしない妄想に繋がりそうで、相手の心を読むことが、そのまま恐怖に繋がると思い、最初から相手の気持ちになろうとはしないに違いない。
ただ、その感覚は無意識によるものなのだろう。
――相手の気持ちを知りたい――
という思いは確かに持っている。それができないのは、
――してはいけないこと――
という意識があるからだ。相手の気持ちにならないと話をしていても、話の内容すら理解できないと思っているくせに、正反対の思いがあるから、してはいけないというよりも、最初からできないことだという意識を持っているのだろう。
――これも一つのジレンマなのかしら?
生きていると、今までにも
――これって何かのジレンマなのかも知れない――
と思うことがあるが、それが何と何の間でのジレンマなのか対象になる相手が分からないことで、それ以上考えることができなくなった。それが一種の「堂々巡り」であるということになる。
――堂々巡りの中で堂々巡りを繰り返しているみたいだ――
と思うと、これも、果てしなさを感じさせるのだと思い、ミラーハウスの恐怖がよみがえってくる。実に面白いことである。こんな発想はミチルと出会わなければできるはずもなかったことだった。
「確かに私、死んだ時の記憶がないんだけど、こうやって話をしていると、別に死んだ時のことを思い出しているわけではないんだけど、自分が本当に死にたいと思って死んだわけではないような気がしてきたわ」
自殺した人が死んだ後、魂だけの存在になった時、本当に自分が自殺したという意識を持っているのかどうか、不思議に感じたことがあった。死んだ先のことまであまり考えたことはなかった数少ない記憶の中で、楓もミチルと話をしていて思い出したり、思いついたりすることがあるのだった。
「死んだ時に、苦しかった思いとか、よみがえってきたりするものなの?」
「いいえ、そんなことはないわ」
「じゃあ、死を通り抜ける時の苦しみを思い出したくないという思いがあるので、死んでから死ぬ瞬間と、その前後のことを思い出さないようにしているのかも知れないわね」
「それは、私、生きている頃に感じたことがあるわ。死んでから、何かを考えることなんかあるんだろうかってね。でも、すぐに考えるのをやめたの。死んだ先のことを考えてしまうと、死にたくもないのに、死んでしまうんじゃないかって思ってね」
「じゃあ、あなたはその時、死んだらどうなるかって考えていたのかも知れないわね」
「そうかも知れない。でも、今はそうではないと思うことの方が強いの」