リセット
「死を迎える瞬間は苦しいものだって思っているから、もし、相手が自分よりも先に死んでしまったら、目の前で苦しんでいる人を見ながら、自分も追いかけるように死ぬわけでしょう? 私にはとてもじゃないけど、そんなことはできない。きっと先に相手に死なれてしまっては、自分が死に切れないと思うの。もし、毒で自殺するのであれば、たぶん助からないでしょう? 自分が倍苦しむかも知れないと思うと、最初から心中なんて考えないわ」
「あなたは、なかなか冷静ですね」
「そうかも知れないわね。でも、死にたいと思うことはないわけではないのよ」
「でも、死のうとしないのは、どうしてなのかしらね?」
「死ぬ勇気がないだけよ。その時になれば、きっと誰だって後悔すると私は思っているから」
すると、ミチルは微笑みながら、軽く頷いた。
「幽霊相手に、する話でもなかったわね」
というと、
「そんなことはないわよ。覚えていないだけで、私もきっと後悔したと思うから」
楓は、ミチルの笑顔を見た時、
――彼女が成仏できないのは、きっと好きだった人に自分のことを忘れてほしくないと思っているからなのかも知れないわ――
だからこそ、この世に未練が残って、彷徨っているのであろうと思った。
「でも、ミチルちゃんが、自殺ではなく、心中だったんじゃないかって思ったのには、何か理由があるような気もするわ。ミチルちゃんは、生きていた頃も今のような性格だったの?」
「それが覚えていないの。死んでしまうと、確かに同じ人間なんだけど、生きている時の自分は別の人間だったような気がして仕方がないの。きっと魂が身体から離れた瞬間に、自分を放棄するようなことになるのかも知れないわ」
この世では、
「死んで肉体が滅んでも、魂だけは生き続ける」
ということを言われる。
それはどんな宗教であっても、共通していることで、疑いようのないことだと思っていたが、当の幽霊であるミチルに言われると、ミチルの言っていることの方が真実ではないかと思えてくるから不思議だった。
「ミチルちゃんが、自分のことを冷静に見えているのに、実際に自殺したのだとして、その理由が分からないということは、今の話を聞いていると分かってくるような気がするわ」
前に読んだ小説で、心中する人の話を描いたものがあったが、主人公は女性であった。彼女は自分が死んだことを知らずに、目だけがまるで不思議な能力を持っているかのように描かれていた。
自分が男性を待っているという設定で、男性はなかなか追いついてこない。時間だけが悪戯に過ぎていくのだが、彼女には次第に彼の気持ちが分からなくなっていた。
それでも、彼の気持ちは固まって、自分のところに来てくれようとしている。つまりは死を迎えようとしているのだ。
だが、そこで彼女は思い立った。
「いや、やめて。死んではいけないわ」
彼女は思わず声を出した。しかし、彼にその声は届かない。彼はそのまま冷たくなり、そこに横たわっている。
――これで、二人は永遠に一緒だわ――
と思って彼を待っていたが、彼は一向に現れない。どうやら、自分を追い越して先に行ってしまったようだ。小説の結末としては、彼女には彼が見えても、彼には彼女が見えていない。ひょっとすると、彼の方でも、自分は彼女が見えているのに、彼女は彼が見えていない世界に入りこんでいる。死ぬことによって、二人は永遠に出会うことのない世界に入りこんでしまったという結末だった。
悲しくて、自然と涙が出てきた記憶があった。それが現実であれば、涙は流れないだろうと思いながら、小説だからこそ、悲しい気分になったのだと思っていた。
「ミチルちゃんは、好きになった人というのは、確かに存在しているのよね?」
「ええ、でも自殺するまで好きだったというのが思い出せないの。それにどんなに好きな相手に失恋したとしても、自分から死のうと考えるなんて、私には信じられないような気がするの」
「だから、この世を彷徨っているのかも知れないわね」
「ええ、やっぱりどうして死んだのか分かるまでは、このまま彷徨っているような気がするの」
「それは困ったわね。私はあなたの気持ちが分かる気がするからいいんだけど」
と言ってはみたが、すぐに言葉を止めてしまった。
――ミチルちゃんの気持ちが分かる?
自分がどうして死んだのか、分からない人の気持ちが分かるというのもおかしな話だった。
どうして死ぬことになったのかを確かめたいという気持ちになっていることは分からなくもないが、ただ、それが分かったとして、どうなるというのだろう? ミチルの記憶がないことには何かの力が働いているように思えてならない。
「ミチルちゃんは、どこからどこまでの記憶がないの? 生まれてからずっと記憶がないわけではないんでしょう?」
楓は、ふと、そのことが気になった。
「死ぬ前の記憶だけがないんだけど、でも、他の人のように、子供の頃からの記憶はしっかりしているのに、死ぬ前からの記憶がないだけで、それ以前の記憶が私は信じられないの。まるで作られた記憶のような気がするの」
ミチルにそう言われた時、楓はハッと思った。
――私は、自分の記憶が繋がっていることで、記憶に関して何ら疑問を感じたこともなかったけど、本当に意識している記憶が自分の経験してきたことだとハッキリ言えるだろうか? 何かの力が働いて、実際とは違った形で記憶していることもあるのではないだろうか?
そう思うと、
――記憶は、都合よく作られたものなのかも知れない――
とも思えてきた。これ以上、余計なことを考えると、今度はミチルのことだけではなく、自分のことも分からなくなり、信じられなくなりそうなので、一度頭の中をリセットしないといけないと思った。そう思うと、見えてこなかったことが見えてくるように感じられるから不思議だった。
――却って冷静になれたのかも知れない――
「ミチルちゃんが、この世を彷徨っているというのも、分かるような気がするわ」
「どういうことなんですか?」
「今のミチルちゃんは、死んだ時の記憶がないから、この世を彷徨っているんだってずっと思ってきたけど、それだけじゃないのかも知れない。死んだ時の記憶がないことで、今まで生きてきたこと全体が、そして何よりも自分自身が信じられないことで、成仏できないのかも知れないわね。やっぱり自分を信じられるようになるためにも、どうして死んだのかということを知りたいと思うのは当たり前のことだと思うの」
「その通りだわ」
「まずは、あなたが失恋で死んだのだということを人から聞いたのなら、そこだけが今は手がかりなんでしょう? その時、誰が好きだったのかということは思い出せるの?」
楓がミチルの記憶がどこからないのかを知りたかったのは、ミチルが自殺する原因になった男性が誰だったのかを知りたいと思うところから始まったのだが、記憶が途中で切れてしまうことが、どれほど自分を不安にさせることになるのかということを知ったような気がした。