短編集1(過去作品)
狭い路地に入って行き、そこはかつて宮崎に連れられ入り、自らが死体となったあのビルではないか。
裕美子がエレベーターに乗り込むのを見て、私も急いで乗り込んだ。行き先も分かっている。
「R」と書かれたボタンを押すと、静かに動き出したエレベーターの中を時間が静かに過ぎて行く。五階建てとそれほど大きくないビルの屋上までこれほど時間が掛かるとは、かなり簡易なエレベーターなのだろう。
屋上に着いた彼女は当たりを見渡した。驚いているように見える。以前に来た時と何か様子が違っていたのだろうか?
日はとっくに暮れていて闇に包まれた空間同様、コンクリートの床がドス黒く見え、気持ち悪い。まるで波のない海を暗闇の中で見ているようだ。
しばらく当たりを見回している裕美子を、私は静かに見ていた。というよりも、この闇の中で見る裕美子の後ろ姿が、次第にその闇の中に吸い込まれて行くようにさえ感じた。
すると裕美子が口を開いた。
「吉本君、宮崎君が何で死ななければならなかったか、理由が分かる?」
「……」
「吉本君、あなたは知っているわよね。知っているなら知っているって言って!」
「知っているよ。君は僕がそれを知っていることを分かっていたのか?」
「ええっ、当然小学校の時のこともね」
「君が殺した」
「ええっ」
「でもどうして僕が知っていると思ったんだい?」
なるべく平静を装うようにして訊ねた。
「私が書いたメモをあなたが持って来たでしょう。普通なら別に何てことない言葉なのにね……。私昔からこれから起こることを夢に見る時があるのよ。それが大切なことであればあるほど鮮明にね」
裕美子はどうやら予知夢を見ているようだ。予知夢とは予知能力のようなもので、これから自分に起こることを前もって夢で見ることらしい。私は皆大なり小なり見ることがあるのだろうと思っている。
それに裕美子は言う「大切なことであればあるほど鮮明に……」と。他愛もないことでも実は見ていて目が覚めた瞬間にその大部分は忘れてしまっているのかも知れない。
しかし私はもう一つの考え方を持っている。自分が考えていることと、現在自分が置かれている環境や立場から、今後起こることを無意識に予測し、それを夢として見て、それが本当に起こっているだけだという考え方である。
どちらにしても夢という今こうして働かせている思考の許容を超えた世界で、何を考え何が起こっているかなどあれこれ考えてもそれはあくまで想像に域を越えるものではない。
予知夢というのは超常現象でも何でもなく、自然現象のような気がして来た。そう考えると私が見たような夢を裕美子が見ても不思議ではないのだ。
「小学校時代君は「ごきげんよう」が口癖だった。そして僕はその言葉でいつも君をイメージしていたんだ」
「あなたが私のことをどう思っていたか詳しくは知らない。でもね、私は多分あなたの思っているような人間じゃあないのよ」
それは私を守ってくれた頼もしさのことを言っているのか、それとも天使のような優しさのことを言っているのか分からない。
「でも君は僕の前では頼もしく、そして優しかった」
「そうね。人は頼もしければ優しくなれるものね。でも私はそれほど強い女じゃないわ。いつも何かに悩んでいてそれに押し潰されそうな思いを感じたことが何度もあるわ。ただ私は一方的にやられるあなたを見て、それがまるで自分のことのように悔しかったわ。私もそんな自分から這い上がりたくて勉強に打ち込んだ。あなたにはその気持ちが分かるでしょう?」
もちろんよく分かる。自分の中学時代を思い出す。私が肯いていると、裕美子が続ける。
「そんな私の気持ちが分かっていたのはお母さんだけだったかも知れない。だから私はあの男が許せなくって……」
「どうして?」
「あの男、酒グセが悪くてすぐに暴力を使うのよ。お母さんはよく殴られていたわ」
「君のお母さんはその男が好きだったの?」
「分からない。あの男酒乱でぐうたらなくせに頭だけは良いみたいで、お母さんから離れようとしないの。お母さんはまるで寄生虫にむしばまれた体のように心身ともに疲れていたはずよ」
おばさんはひょっとして何かあの男に弱みでも握られていたのかも知れない。最初は同情を引くように近づき、次第に本性をあらわすといった手口。そう考えればあの男が死んでから、親子で逃げるように街を去った理由もうなずける。有ること無いこと噂が飛び交った中に、ひょっとして真実もあったかの知れない。
「私あの時誰かに見られているのは分かっていた。それがまさかあなただとは思わなかったけど……。私は恐かった。だからお母さんがすぐこの街を離れたいと言った時、一も二もなく賛成したの」
「そうか」
「でもその時見ていたのはあなただけじゃなかったのね。あの男はずっと私をつけていたのよ。塾が終ってから家に帰るまで、時々私の後をつけていたのね。あの人、私が殺したのを見て元々人を信じれるタイプではなかったところへ持ってきて、さらに人間不信が深まったと言っていたわ」
そういえばあの事件があってからの宮崎は元気がなく、学校も休みがちだった。
「僕は君が実際に殺したところを見たわけじゃない。ドカンと大きな音が聞こえたので行ってみると人が倒れていて、それから当たりを見渡し走り去る君を見かけただけなんだ。要するにすべてが状況証拠のたぐいなんだ」
「あの男はあなたも見ていたと言っていたわ」
裕美子は夢以外でも宮崎から聞いて知っているのだ。ということは、やはり宮崎が私を呼び出そうとした理由は私の考えていた通りだろう。
「ひょっとして宮崎という男、君が昔殺したあの男に似ているんじゃない?」
「ええっ、性格的にはそっくりだと思うわ。執念深く、猜疑心が強く、金に無頓着なくせに頭だけは良くて、悪知恵の働く……」
裕美子は悪口雑言を並びたてる。それだけ二人に対しての不快感は相当なものだったのだろう。
そういえば奴は多大な借金があると言っていた。奴に借金がなく、もしあの時出会っていなければ、宮崎は死なずにすんだかも知れない。
しかし彼女は二度も同じ過ちを繰り返してしまった。二度目は一度目が運命の出会いからつながってしまった線の延長上にある。
私は宮崎という男が好きではない。それは彼が死んだ後でも同じことで、性格的に合わないといった方が正解かも知れない。そんな宮崎の肩を持つわけではないが、再会したあの瞬間から裕美子に脅しをかけようとしたのではないだろう。再会の瞬間のあの懐かしそうな顔がそれを物語っている。そしてその表情には嫌らしさの微塵もなかったことを……。
私がその激しい音のした方向に走り寄った、ものすごいスピードで走り去る裕美子の後姿が見えた。まだ子供だった裕美子にこの状況は重苦しいものだったはずで、一刻も早くその場から立ち去りたいという気持ちとは裏腹に最初は震え出してしまった足を止めることができず呆然と立ち尽くしていたのだろう。
薄暗い中、目に飛び込んできたのは一つの黒い塊だった。布に覆われたその黒い物体を見て、想像はしていたが信じられないという思いもあり、何か分かるまでしばらくかかった。
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次