短編集1(過去作品)
そう開き直ったのかも知れない。極限状態に陥ると人は思いもよらぬことをする。火事の時に重いタンスを年寄りが持ち上げたなど、嘘か本当か分からない話も、私の中でまんざら嘘ではないのかと、どうしても思うようになったのは、その時が最初だったような気がする。
裕美子を追いかけなければならないという思いが消えたわけではない。なぜなら私の頭の中を、そのビルの中に裕美子がいると信じて疑わない気持ちが支配していたからなのだ。
中を覗くとやはり真っ暗だ。しかしその時の私は恐怖よりも好奇心の方が強かった。いや好奇心というものではない。頭の中のわだかまりを確かめたいという気持ちが強かったのだ。
普段はシーンとしているのだろうが、今日のような強い雨、しかもまわりにかぶせてあるのがビニールシートということもあり、ほとんどの音が掻き消されているように思える。私は聞き耳を立てたこの轟音の中からでも裕美子がいれば、その気配を感じることができるのではないかという愚かとも思える行動である。
小さい頃暗闇というのはどこか別の世界の入り口ではないかと思い、まわりが見えない分、気が付けば別の世界にいるのではないかと考えたことがあった。それはかがみの世界で、一度入り込んでしまうと二度と出られない。出れるとすればもう一度同じ環境を作り、誰か別の犠牲者が現れない限り、永久にそのままではないかと……。
もちろんそんなはずはないと感じながらであるが、暗闇だけはどうしても駄目だった。
幼い頃、布団の中で聞かされたおばあちゃんの話、何の根拠もない話だが、おばあちゃんが話すんだからと思っただけで、頑なまでに信じ込んでいるもう一人の自分がいる。
少しずつ前に進んで行く。暗闇に目が徐々に慣れていき、足元に残った未処理のままの瓦礫を避けるように歩き始めた。
まるでコウモリになったようだ。見えない目のかわりに超音波を出し、その反射で自分と自分のまわりとの環境を知る。我々人間とは構造自体が違うが、一体どうなっているのだろう。まるでロボットのようではないか。
少し目が慣れてきたとはいえ、ほとんど何も分からない暗闇の中、色はもちろん正確な形や大きさすら分からない。
私は進みながらその時の夢を思い出そうとしてみた。前に進むにつれ、次第に思い出しそうな気がしてきた。この薄暗く不気味な雰囲気と、夢の中の幻のようなものがどこかでリンクし、記憶の糸を少しずつ解して行く……。そんな時に頭の奥に隠れていたものが顔を出すのではないだろうか?
そう確かにデジャブーを感じる。頭の中の幻が形となって現れている。私は更に前に進んだ。
夢では何も考えず、ただここから抜け出したい一心で前に進んだ。しかし今は進むことによってそこに何が待っているか何となく分かるだけに気持ち悪い。もしその通りであれば、このまま進みたくない。
しかし不思議なもので、夢を見ている時の私に「これは夢ではないだろうか? 」という思いがあった。そして夢から覚めた瞬間、やっぱり夢だったと感じる。それは現実に戻った私が感じることであって、夢の中の自分とは別人なのだ。もし夢という世界が別にあり、環境だけがまったく同じまるで鏡のような世界だとしたら……。そう考えるとデジャブーという現象も説明がつくのではないだろうか。
遠くで聞こえたオオカミの遠吠えのような声、水溜まりが弾けるような大きな音、ほんの一瞬のことがスローモーションのように映し出され、夢と現実が完全にリンクした瞬間だった。
(これも夢であればいいのに……)
無理なことだと分かっていても、どうしてもそう考える。
それから裕美子は私の前から姿を消し、裕美子の店のカウンターに座っていたあの哀れな男を永久に見る事ができなくなってしまった……。
裕美子には自分が書いた「ごきげんよう」の意味が分かっているはずだ。私は確かに聞いた。夢と現実がリンクした瞬間にその言葉を……。
聞いたのは夢の方だったのかも知れない。少なくともあのビルの中で私の近くには誰もいなかった。
しかし私はあの時と同じ思いをまたしてもしてしまうとは思ってもみなかった。裕美子と空港で出会ったあの時、何となく予感めいたものがあったのだ。
歴史は繰り返すというが、裕美子と出会ったこと自体がそのキーワードだった。私の人生に歴史があるとすれば、そして歴史に「もしもあの時」があるならば、夢と現実のリンクが私にとっての「天下分け目」だったともいえよう。もしあの時あそこへ行かなければ、いやそれ以前にあんな夢さえに見なければなどと思うのは、御法度なんだろうか。
夢というのはその人の願望が見せるともいう。現実に近いことを願望してそれを見たとすれば、それがリンクすることは偶然かも知れない。しかし二度も起きたとすれば、もはや超常現象というものに背を向けるわけにはいかないだろう。
しかし二度目は偶然ではなかった。一度目が線となってつながり、二度目があったのだ。
宮崎という男、いい奴ではない。しかし悪党でもなかったはずだ。
私は警察が尋ねて来た時に、宮崎とは時々会っているようなことを言った。しかしそれは嘘である。宮崎とは小学校を卒業してから、ほとんどロクな話もしていない。中学校までは同じ学校だったが、これといって話すこともなく、いつも別行動だった。
宮崎と私は、小学校低学年の頃親友だった。よくお互いの家に遊びに行ったりしていて、その頃の私は、宮崎とは大人になるまでずっと一緒にいるような気がしていた。
しかしいつ頃からであろうか、宮崎は変わってしまった。私を無視するようになり、気が付けばいじめの先導をしていた。裕美子がかばってくれるのを見ては次第にいじめがエスカレートして行き、もう宮崎は親友でも何でもなくなってしまった。
次第に私は自分の殻に閉じこもりきりになって行って皆の気持ちなど考えようとはしなかったが、いじめる方にもそれなりの言い分があったかも知れない。それをただ闇雲に私をかばう裕美子が宮崎の目にはどのように写ったのだろう。
小学校卒業後、宮崎と出くわすことはあっても、話すことはなかった。おそらく卒業後、最初に話したのは成人式の時だったろう。
最初に気付き声を掛けたのは宮崎の方だった。昔の面影はあったが、高校卒業後就職したと言っていた宮崎は大学生仲間とばかりいる私の目には大人に見えた。
その時の宮崎はかなり酔っていて、私も飲み慣れない酒を飲んだため、話し始める頃すでに昔のわだかまりは消えていた。
「悪かったな、小学校の頃は……」
ぶっきらぼうではあったが、重みのある言葉だった。
「いいってことよ」
それを聞いて少し安心したかのように見えた宮崎だったが、
「ところで、元々の原因は何だったんだい?」
もう時効かと思って聞いてみた。わだかまりが消えた今すぐにでも返事が返ってくると思ったが、意外にもそこで宮崎は黙り込んでしまった。ひょっとしてこのまま酔いが覚め、この打ち解けた雰囲気が壊れてしまうのではないかという危惧が頭をかすめたが、そこまではなかった。
「他愛もないことだった気がする。忘れたよ」
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次