短編集1(過去作品)
「ごめんね、お願いできるかしら? これ少しだけど、食べて行って」
皿の上に揚げたてのさつま芋の天ぷらがあった。待っている間のおやつとして急遽作ってくれたのだろう。どうせ時間もあることだし、冷えてからではおいしくないので、少し食べてから行くことにした。
すると店の方で一人静かに飲んでいた男が立ち上がった。手を使って椅子を引いたわけではないので、どうやら足に引っ掛かり、そのまま椅子が後ろに倒れたようだ。静かな店内にその音が響き渡ったが、当の本人よりもおばさんが一番驚いているようだ。
椅子を起こそうとする男の顔は真っ赤で、アルコールの量がさぞかし多かったことを示している。これでは椅子を倒しても無理もない。
おばさんは私の方を気にしながら椅子を起こし、肩を抱きかかえるようにして千鳥足の男をもう一度椅子に座らせた。男の目がおばさんを睨んでいる。なるべく目を合さないようにしているおばさんとの間を異様な空気が支配し、息苦しさを感じる。
一刻も早くこの場から立ち去りたいと思ったが、おばさんを睨んでいた男が急に立ち上がり出口に向かったのを見て、タイミングを逸したのを感じた。その後ろ姿を心配そうに眺めていたおばさんの目が印象的だった。
「あの人、会社が倒産し、奥さんに先立たれ……」
哀れな人なんだということを私に話してくれた。先ほどの寂しそうな顔に愛情が含まれているかは分からない。同情だけかも知れない。そういえば寂しそうにしていた裕美子に聞いたことがある。その時彼女が言うには、母親に恋人が出来たらしく求婚を迫られているが、どうしていいのか悩んでいるということだった。裕美子自身が気に入った男だったらよいにだが、あまり好きになれない男らしく、母親もそれが一番引っかかっているらしい。
(あの男なら自分が子供でも嫌だな)
と思ったが、たった一回チラッと見ただけでの判断は禁物だ。普段見せない醜態なのかも知れない。第一、他人の家庭のことに対し、私が判断することではない。
これ以上おばさんの寂しそうな顔を見るに耐えなくなり、私は裕美子を迎えに行くことにした。家を出た時すでに雨は降って来ていた。風も出てきたようで、横殴りの雨である。他の小料理屋の赤ちょうちんが濡れてアスファルトに写っていたが、その上に容赦なく降り注ぐ雨のため、モザイクのようにボヤけて写っている。
「気を付けてね」
先ほどの寂しそうな表情から一変、ニコニコしながら私を送り出してくれる表情はいつものおばさんの表情に戻っていた。おばさんのあの表情があの人の本当の表情だと思いたい。
今から行けばちょうどいい時間である。慌てて行く必要もなく、着く頃ちょうど出てくる彼女と出くわすくらいの計算でいた。
目的地は駅近くにあり、それなりに賑やかなところだが、何分街が狭いせいか、少し歩いただけで田園風景が広がったりと、景色は一変してしまう。迎えに行くこの道も途中に田畑があり、建築中のビルありと様々な風景を見せてくれる。
しかし私の計算は間違っていた。途中、近道だと思って通ろうとした狭い路地が工事中だったりして、思わぬ時間が掛かってしまった。案の定、塾に着くと授業は終っていてほとんどの生徒が帰宅した後だった。それでもと思い、少し探してみたが、やはり見つからない。
(ひょっとして塾で傘を借りたのかな?)
という思いで、彼女の通学路を帰ってみることにした。
近道をしようとしたのがそもそもの間違いで、彼女の通学路を逆から来れば行き違うこともなかった。傘を持っていないのだから待っているだろうというのは勝手な思い込みで、私が迎えに行くことなど裕美子の頭の中にはなかったはずだからである。
途中雨が強くなってきたのを感じた。前から来る車のヘッドライトは降り注ぐシャワーのような雨であるためボヤけて見え、道があまり良くないためか、所々にできた水溜まりにタイヤが踏み込むたび水しぶきが上がり歩きにくい。
横殴りの雨のため私のズボンから下はほとんど編めによって濡れそぼっていて気持ちが悪い。傘には容赦なく降り注ぐ雨が轟音とともに加わる圧力のため、持っているのも大変だ。
街中を歩いている時はまだよかった。道が郊外に差し掛かるとボヤけている街灯だけではとても周りを照らすことは不可能で、田んぼと道の間にある小さな溝から増水した水が、
溢れた歩道との見分けがつきにくくなり、これほど歩きにくいものはない。
急いで行かなければという思い通りにはいかず、もどかしい思いとともに彼女を追いかけた。
会えるはずだと頭から思い込んでいたこともあり、思いが叶わなかった心の中はポッカリと穴が空いてしまった。
実は私には少し気になることがあった。数日前に見た夢がそうである。
夢というもの意外な夢であればあるほど、現実に引き戻されたその時が、実はまだ夢ではないかと思うもので、しばらくはその余韻が頭の中に残っている。しかしそれから次第に今の自分を悟るに至って、頭の中を支配していた夢が消え失せてしまうように奥深く仕舞い込まれる。
穴が空いてしまった頭の中に去来するものがあった。
(どこかで見た覚えがある。いったい何だったんだろう?)
以前どこかで……。そんな思いが今までに何度もある。それは大抵は夢で見た事であったり、何かを見て感じたことをまるで自分のことのように覚えていたりしたことだったりする。もちろん友人から聞いた話をあれこれ想像して考えることだってあるだろう。
(なぜこんな時に思い出すのだろう?)
裕美子を迎えに行って、目的が達せられずもどかしく、そしてこの荒れ模様の天気、すべてが影響している。
この道なき道をさまようように歩きながら、そんなことを考える。いつも通る知っている道だからこそ逆に想像もつかないこの変わり様に、本当にこのまま真っ直ぐに行けば知っているところに出るのだろうかという不安が頭を擡げる。
歩いているうちに目の前に建築中のビルが見えてきた。まわりにはシートがかぶされ、そこには最近よく見る建設会社の名前がマーク入りで書かれている。
そのビルに入ってみようと最初から考えたわけではなかった。もちろん見覚えがあるはずのないビルである。ただ横を通り過ぎればよいだけだった。
そのビルの脇を通りぬけようかと思った時である。かぶせられたシートの間から見える暗闇が何となく光ったような気がした。どちらかというと恐がりでホラー映画などを見ると一人でトイレに行くことすらできなかった私は、いつもであれば早足でそこを通り過ぎていたであろう。しかし見たのだ、そうこの光景は確かにかつて見た覚えがある。それがあの頭に引っかかっている夢であると感じたのは、それからかなり後になってからのことだった。
(デジャブー?)
かつて見たこともないのに何となく以前に見たのではと思うことをそういうらしいと知ったのは、恐いくせにホラー好きのクラスメイトの話を好奇心から聞いた時だった。
私はデジャブーを頭の中で考えた時、恐いと思う反面、そこから遠ざかることができなくなった。
(開き直り)
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次