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短編集1(過去作品)

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 その日の裕美子はいつになく激しく燃えた。どちらかと言えば受け身タイプの彼女だが、今日は積極的だった。まるで不安や悲しみをあらわにし、それを全身でストレートにぶつけてきているようだ。
 不安になってやってきた裕美子だったが、その日の口数は皆無に近かった。元々口数の少ない方で、私も彼女からの話題がないと喋らないタイプだったので、その日は黙々と過ぎ、時計の音だけがやたらと響いた。
 私の方から敢えて聞こうとしなかったのは、聞くきっかけがなかったからだ。しかし裕美子が抱えている不安は手に取るように分かった。今の彼女の立場も心得ているつもりなので、彼女自身の態度からその胸のうちはよく分かる。だから逆に話すきっかけがない。
 静寂な時間が黙々と過ぎて行き、思ったより時間が短く感じたのは不思議だった。
 いつものようにホテルで一泊し目を覚ますと、丸テーブルの上に彼女の置き手紙があった。いつもは簡単に「行ってきます」と書いてあるだけなのに、今回は違った。「ありがとう、ごきげんよう」と書いてある。
 私は驚いてしまった。この「ありがとう、ごきげんよう」というせりふに覚えがあったからだ。しかもそれを言ったのは彼女で、それもごく最近に聞いた気がする。
 彼女は自分で「ごきげんよう」という言葉を紙に書いた意味を分かっているのだろうか?
 裕美子が書き残したこのせりふは、あくまで無意識に出た言葉だった。自分の置かれたのっぴきならない立場の中でその窮地から逃れんとするがごとく取った行動、それに対し思わず出た言葉が「ごきげんよう」だったのだ。
 そのことを私は裕美子に確かめてみようとは思わない。当分そっとしておくことにした。しかし考えれば考えるほど納得がいかず、ついに私は裕美子を呼び出した。裕美子もそれが何を意味することか分からずに来たはずだが、まさかそれがプロポーズだったとはさぞかし驚いたに違いない。


「でも私たち、お互いのこと何も知らないはずよ」
 確かにそうだ。小学校の頃、誰も何も知らず裕美子はいなくなった。それから彼女には彼女の、私には私の人生があった。私はあの頃からくらべればかなり変わった。彼女も変わってしまった私に少なからず戸惑っているはずだ。しかし彼女自身も変わったはずで、逆に昔を知っている分、理解できないところも出てくるはずである。
 このせりふが彼女にとって断るための常套手段ではないだろうか。
 私は裕美子に対して「切り札」を持っている。しかしそれは逆に危険でもあり、逆効果に出れば、それ以降一切口もきかず、そのまま終ってしまう「パンドラの箱」でもあるのだ。私は敢えて今日それを使おうと思っている。
「ありがとうございます。ごきげんよう」と書かれた裕美子直筆のメモをテーブルの上に差し出した。それを見た時の裕美子の驚き、しばらく声が出せないといったかんじだった。
「バンドラの箱」を開けてしまった私に後悔はない。こうなったら強気で押すしかない。
「何、これ?」
「君がこの間、机の上に置いて帰ったんだよ」
「私が?」
「ああ」
 それを書いた事すら裕美子は覚えていないようだ。無意識のうちにこれを書き、テーブルの上に置いたのかも知れない。
「これがどうしたの?」
 彼女は当然のように聞いてくる。それも分かっていたことだ。
「……」
 しばらくの間、沈黙が続く。私は裕美子を睨みつけていたが、裕美子は裕美子で何かを思い出そうとしているようだ。
「お母さん……」
 裕美子は沈黙の中で何度か呟くように口走っている。いつの間にか降ってきた雨が、今はシャワーのような細かい線を引き、アスファルトの上で踊るように跳ねていた。


「梅雨前線北上に伴い、日本列島は大荒れの天気になり……」
 当時としてはまだ女性キャスターは珍しい時期だったが、一つの局で始まると他の局も視聴率アップをもくろみ、たちまち「お天気お姉さん」の地位は確立して行く。
 成績優秀だった裕美子は、週二回学校が終ってから学習塾に通っていた。もちろん親から強制されたものではなく、自分の意志でである。
「私勉強が好きなの。中学は受験して、それに合格した者たちの間で自分の実力を試したいのよ」
 もう合格したつもりでいるようだ。
 小学生といえどもしっかりした考え方を持った者も多く、学習塾というところは皆親の強制で無理矢理勉強させられるところと思っていた私の考えは根本から違っていた。
 勉強好きなところへ持ってきて元々頭が良かったのだろう、学習塾の進学クラスでもトップクラスのようだ。そのことは何よりも母親が一番自慢したいところのようで、遊びに行くといつもその話だ。娘としてはそんな自慢話は迷惑なことだが、せずにおれない母親の気持ちも分からなくもない。父親を早く亡くし、母の手一つで育てたのだからその思いもひとしおのはずである。かくゆう私も、友達に成績優秀な子がいるというだけで嬉しかったりもした。
 その日の私は裕美子の家へ行っていた。塾は七時には終るということで、八時前には帰ってくる予定になっている。
 その日は裕美子の誕生日。ろくなお祝いもできないと言っていたが友達である私が呼ばれた。裕美子の母親に気に入られたのだろうか? 家で裕美子がする話の中にいつも私が出てくると言っていたので、少なくとも母親としては私という人間に興味があったはずだ。
 裕美子の家は一階で小料理屋をやっていた。七、八人が座れるカウンターにテーブルが二つとこじんまりとしたものだが、それなりにきれいだ。それゆえに裕美子の母親に対するイメージとしては割烹着を着たところしか浮かんでこない。
 その日は店の方ではなく、家の方で誕生日会をするということだ。「本日休業」の札が掛けられ、三人で裕美子の誕生日を祝う予定なのだ。
 少し早いと思ったが、六時過ぎには裕美子の家に行った。
「あら、また随分早いわね。でもいいわ、上がって待っていらして」
 本日休業なので少しは違う格好をしているかと思ったが、相変わらずの割烹着姿である。台所に立つ女性には割烹着姿が一番よく似合うと思ったが、それは味噌汁のいい香りがしてきたからに他ならない。
 台所からすぐ横が店になっている。あまり早く来たため目のやり場に困りふと店の方を見ると、本日休業の店から明かりが漏れていた。チラリと見えたのはカウンターに座って少し猫背になっている男の姿である。グレーの作業着のようなものを着ていた。
「今日は休みじゃないんですか?」
 聞いてはいけないことかと心の中で思いながら、小声で訊ねた。
「ええ、あの人はいいのよ。でももうすぐ帰るから気にしないで」
 少し声が上ずっていた。しかし気にしないでというのも無理な話で、チラチラ男の方を見ている。子供心にもその人がおばさんにとって特別な人であるということは、薄々感じていた。
 あまり静かだと殺風景だと感じたのだろう。テレビを付けてくれた。ちょうどニュースも終りの時間で、天気予報をやっている。雨という予報を聞き、
「あら、降って来そうね」
「ええ、少し強めに降るとか言ってましたね」
「どうしましょう。あの子、確か傘を持ってないわ」
「じゃあ、僕が行ってきましょうか?」
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次