短編集1(過去作品)
そこには水谷が見たこともない男が写っている。年齢としては三十代前半というところであろうか? こちらもパリッとしたスーツを着込み、銀行マンか商社マンのイメージだ。
手に取ってじっと見てみたが、どう考えても見覚えがない。
「いいえ、存じませんが」
「それじゃあこちらは?」
今度はもう一人の刑事が写真を出した。今度は二枚である。二人とも女性で、一人は三十代前半、もう一人は二十代半ばに見える。二枚の写真を交互に見たが、三十代とおぼしき女性はともかくとして、若い方の女性には何となくの引っ掛かりがある。懐かしいという思いと、見ているだけで安心感を与えてくれるような思いだ。そういえば、綾子に似ていなくもない。
「この三人がどうかされたんですか?」
「この男の人が、数ヶ月前この先の友添川で死体となって発見されました。我々がその捜査をしています」
「ああ、あの事件ですか」
藤原先生は知っているようだが、水谷にはどうもピンと来ない。
「君が交通事故に遭う少し前に起こった事件だよ。私は家があの近くなので、そりゃあ、近所の噂は凄いものだったよ」
「ところでこの三人と私がどういう関係なんですか?」
それには答えず、刑事は三十代前半の女性の写真を手に取り、こちらに示した。
「この人は殺されたこの男性の細君です。男の方は野村雄三、女性の方は由紀といいます。見覚えは?」
「いいえ」
どちらかというと気の弱そうなタイプで、女性の方が体格に似てガッシリタイプ、さぞかし「カカア天下」の家庭だろうと想像できる。少なくとも自分ならこんな女と絶対結婚などしないだろう。
「じゃあ、こちらは?」
何度も見せて、何とか証言を引き出そうというハラらしい。
水谷は黙り込んでしまった。
「やはり記憶を失っていても、やはり潜在的に覚えているみたいですね」
「私はこの人と知り合いなんですか?」
「あなたの恋人だった人です。名前は中村弘子といいます」
(だった? 過去形ではないか)
「じゃあ、なぜ彼が入院した時、お見舞いに来ないんです?」
藤原先生も同様の思いのようだ。
「今申しましたように恋人だったんです。今は残念ながらお亡くなりになられましたが」
「死んだ! どうして?」
「それが不思議な死なんです。殺されたわけでも自殺でもない。自然死という奴ですかね」
「じゃあ、この二人と彼女との関係は?」
「どうやらこの野村雄三と不倫の関係にあったようなんです」
記憶のないことが幸いしてか、それほどの驚きはないが、却って忌々しい。記憶があればいろいろな思い出が頭を廻るのだろうが、まるで他人事のようにしか思えないのだ。かつてこの女とどういう仲だったのか思い出せない自分がもどかしい。
冷静な頭で考えると、自分も容疑者の一人ではないかという気がしてきた。しかし記憶を失った今、当時のことを聞かれても何とも答えようがない。
「私はこの通り記憶がありませんから、何をお聞きになられてもどうしようもありません」
「分かっております」
一人の刑事が静かではあるが重々しい口調で答えた。どこまで信じて良いのやらと思っているのかも知れない。
「またお話を伺うことになるかも知れませんが」
と言って刑事が立ち上がった。どうやら水谷が写真を見た時の反応が知りたかったようだ。二人の刑事の目には水谷がどのように映っただろう。
水谷にとって過去を思い出す最大の手掛かりとして、かつて恋人だった女性の死を伝えられることは何と皮肉なことか。さらにその女性が不倫していたとなればなおさらである。
しかし刑事の話では、水谷もかつて弘子と付き合っている時はなるべく人に知られないようにしていたという。
水谷は自分でどうすることもできないほどの自己嫌悪に陥りそうな気がしてならない。記憶が途切れる前の自分の身近で起こった殺人事件、自分が犯人にではないにしても、真実が明らかになるにつれ、やり切れない気持ちになるであろうことが分かっていたからだ。このまま街にいてもやり切れない気持ちの解消が出来ないことは分かっているので、先生に相談し、もう一度湯浅温泉で静養することにした。
先日訪れた時は旅行に必要なもの以外は何も持って行かなかったが、今度はカメラとノートを持参することにした。先生のアドバイスもあってだが、思ったこと見たことをそのまま表現することの訓練も治療のうちということである。忘れっぽい性格のようなので、黙って指示に従うことにした。
(綾子はどんな表情で迎えてくれるだろう)
初日の時のあの妖艶な綾子の表情よりも、爽やかな表情の方が印象に深い。確かにあの一夜は水谷にとって夢のようであり、たった一回だったことが口惜しくもあるが、元々綾子のような女性は笑顔が一番似合うと思っている水谷にとって、やはり爽やかな綾子が浮かんで来る。
「お客さん、よほどこの温泉が気に入っておられると見える」
運転手が気軽に声を掛けてきた。
「どうしてだい?」
「顔の表情に出てまさあ。前よほど楽しかったんですかね」
「まあね」
そう言いながら笑顔を見せた。それにしてもさすが客が少ないせいか、運転手は私のことを覚えていたのだ。無意識にニコニコしているのだろう、却って今見せている笑顔の方が何となく不自然な気さえする。
「ところで君は時々こちらへみえるという老人を見たことがあるかい?」
「何でも小説をお書きになるとかいう?」
「ああっ」
「ありますよ。最初は無口そうな方で、とっ突き難そうかなと思ったんですが、話をしてみるとこれがなかなかの博学で、ただ知識をひけらかす風でもなく、その話も私なんかでも分かるように楽しくおかしく話してくれる。あの人を乗せた時なんざあ、運行時間もあっという間ですね」
思ったより気さくな性格のようだ。運転手の話を聞いているうちに何となく顔のイメージも浮かんで来るような気がしてきた。「そうそう、この間来られた時、面白いことを話されてましたよ」
「面白いこと?」
「面白いといったら不謹慎かも知れないけど、朝散歩していたら、死体を発見したらしいんですよ。一生のうちにあるかないかの出来事ですよね」
散歩していて目の前に死体が転がっていたら、自分ならどんなリアクションを取るだろうと水谷は考えた。一刻も早くそこから立ち去りたいか、それこそ一生にそうあることではないのでマジマジと見るかである。どちらにしても極端に取り乱すか、極端に冷静になれるかのどちらかであろう。
それにしても老人も話すのが好きという。豊富な知識があるようなので、水谷とは話が合うかも知れない。そう考えるとこの前来た時、話ができなかったことが残念だ。
バスが到着した時はこの間と違い、まだ少し明るかった。あれから約一ヶ月近くたっていることもあって、同じ時間であっても日が暮れるタイミングが違う。太陽は今しも西の空に消えようとしていて、最後の明かりを精一杯出していた。
「いらっしゃいませ」
この間と同じように仲居さんが総出で迎えてくれる。
「おや、綾子さんは? この間私を世話してくれた古賀綾子さんは?」
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次