短編集1(過去作品)
久しぶりにその日の水谷の舌は軽かった。いつものウンチクに拍車がかかり、我を忘れて話し込む。今までであれば、あまりのしつこさに相手がうんざりし、それで我に返るのだが、綾子に限ってはそんなことはなく、興味深く聞いてくれている。ついつい、終わりがないのではと思えるほどにウンチクを傾けた。
元々水谷のウンチクはSFや超常現象のようなスケールの大きな結論のないような話なので、一旦話し始めるととどまるところを知らずに続いていく。
「ごめん、話が長すぎた!」
料理にほとんど箸がついておらず、気が付くともう一時間近く話をしていた。久しぶりに興奮した水谷の空腹感は頂点に達していた。
料理を掻き込む水谷を見て、綾子は満足そうに微笑んでいる。
「綾子さんもどうぞ召し上がって下さい」
「ええっ」
今まで声高らかだったこの部屋から話し声は消え、黙々と食する音だけが響いていた。
少し落ち着きを取り戻すと、今日一日のことを考えてみた。ここまで長かった道のり、そういえば途中電車の中でうたた寝をした時、何となく夢を見ていたような気がする。その夢はいつも見るような夢だったのか、それとも今まで見たこともないような夢だったのか今日に限ってまったく思い出せない。
このほのぼのとした田舎の風景を目の当たりにし、温泉に浸かったことが影響しているのか、それとも目の前に鎮座し食事を撮っている綾子の存在がそうさせるのか、どちらにしても今日の水谷にとっての綾子の存在は天使のようである。
綾子の顔はまだほんのりと赤みを帯びている。
「大丈夫かい? まだ顔が赤いようだけど」
「ええっ、でも正直何か変な気持ち……」
そう言った綾子の目は潤んでいる。浴衣の前ははだけ、まるで酔いに身を任せているようだ。
綾子は水谷にジリジリと近づいてくると体をヘビのようにくねらせ、まるで厭々をするだだっ子のような仕草だが、妖艶な色っぽさを滲み出させた。
正常な男である以上、体が反応しないわけがない。ましてや温泉という開放感もあり相手も望んでいるのである。理性が入り込む余地があろうはずもなく、綾子をしっかりと抱き寄せた。
しかしここで焦るのは得策ではない。あくまでも甘い雰囲気を壊すことなく、それを大切にすることで余計盛り上がることができる。性欲と征服欲とを同時に満たす事が今の水谷には至福の悦びに思える。
(待てよ)
そこまで来ると水谷の脳裏に何か引っ掛かるものがあった。
以前味わったシチュエーションによく似ている。それもごく最近、まるで昨日のことのようだ。
相手が誰であるかとか、場所がどこだったかなどまったく思い出せないが、本当に昨日のことのようである。
(ひょっとして)
水谷は思う。記憶を失った瞬間を起点として、それ以前と以降では何かのスイッチが切り替わるように、記憶のインプットされた場所から違うのではないか。もし何かのきっかけで記憶を失う直前の状況に身を置けば、またスイッチが切り替わって以前の記憶からつながるのではないかと……。
綾子を抱く水谷の腕に力が入った。綾子もそれに反応して体を強く押しつけてくる。
見詰め合った二人は目を閉じ、唇を重ねた。水谷の行動はそのまま思い出しかけている記憶とリンクする。
(もう少しで目の前の霧から開放される)
そう感じたのはしかしその時までだった。そんな考えは頭の中を支配している性欲が最高潮に達した時、どこかへ行ってしまい、後は本能のみで動いている。
甘い悦びの声が途切れ途切れに聞こえてくるのだが、それさえ遠くで起こっていることのような気がしてくると、本能に支配された水谷は前後不覚状態に陥ってしまった……。
目が覚めると隣にもう綾子はいなかった。どうやら仕事に戻ったようである.。
(昨日一日は一体何だったんだろう)
我に返ると昨夜の出来事がさらに信じられなかった。朝食の用意をしてくれる綾子はすでに仲居に戻っていて、恥ずかしさのためか何となく彼女を正面から見ることのできない水谷と違い、彼女はごく普通に接している。それだけに余計昨夜のことが夢のように感じられるのだ。
それからの綾子と水谷の関係は仲居と客の関係で、それ以上でもそれ以下でもなかった。最初こそぎこちなかったが元々これが普通の関係、逆に夢のような彼女との関係を思い出し、あわやくばもう一度という思いを抱きながら過ごすのも悪くはなかった。
この地の滞在も一週間にもなると、当たりの地理も大体分かるようになってきた。ずっと散歩コースとして毎日朝夕歩いているところも森あり滝あり清流ありと、自然の様々な様相を見せてくれるが、その中でも水谷は滝が気に入っていた。
同じ水であるにも関わらず、上からの勢いによって弾ける水しぶきは自然の力強さを示し、あたりがのどかなだけにいつまで見ていても飽きないのだ。吸い込まれそうな錯覚に陥りそうな中で、滝を見ているとかつての自分の中に滝のような力強さがあったような気がしてならなくなる。
水谷にとって不思議なことが実はもう一つあった。滞在から一週間たったわけだが綾子に不思議に思って聞いてみたことがあった。
「そういえば、もう一人宿泊客がいると言っていたね」
「ええっ、ご老人が一人」
「まだ泊まっているの?」
「はい、ご滞在中です」
「ずっと部屋に閉じこもりきりなのかな?」
「いいえ、時々外出されるのを見ますよ」
「一度も会ったことがないんだがね」
「そうですか、変ですね。でもそのうちお会いできるんじゃないですか」
「そうかな。ところでどんな老人なの?」
「普通のご老人ですよ。何か小説のようなものを書いているとかおっしゃってましたね」
やはりそうか、こんな山の中老人が一人で長期滞在するということは湯治目的か芸術家か何かだろうと思っていた水谷の想像は当たっていた。
しかしそれにしても小説家なる商売は水谷にはよく分からない。元々芸術家のような人種はプライドだけが高く、偏屈者が多いと考えていたからである。もちろん誤解も多分にあろうが、一度思い込んでしまったことはなかなか頭の中から消えないものである。
「でも小説家は第二の人生らしいの」
定年後に趣味を生かしてということなのだろうか? 最近は第二の人生を有意義に過ごすためにいろいろなことに挑戦している人が多いというが、そういうことであれば今まで感じていた小説家のイメージでその老人を見るわけにはいかない。逆に話をしてみると意気投合するかも知れないとさえ思った。
しかしそれにしても一度も会わないということは完全に水谷と行動パターンが逆ということになるのだろうが、一週間も同じ建物にいるのにその人の気配すら感じない。まるで影のような存在だ。
(影のような存在?)
そういえば記憶を失ってからの水谷は、時々誰かに見られているような錯覚に陥る時がある。藤原先生にはその話をしてみたが、その時はまだ事故の後遺症が残っているだろうとの診断だった。ここを紹介してもらったのには一つはその後遺症があったからに他ならなかった。
「ところでその老人は一体どんな人なんだい?」
「どんなって、普通の人ですよ。でも一度面白いことを言っていたわ」
「どんなこと?」
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次