短編集1(過去作品)
最初こそまだ高校生といっても通りそうなあどけなさがあったが、彼女の場合、逆に人なつっこそうな表情が大人の妖艶さを感じさせる。
彼女が出て行って一人になると水谷はさっそく浴衣に着替え、自慢の温泉を満喫することにした。
夕食までには時間があるので先に温泉にでも入られたらというのはさっきの女将の言葉である。温泉は、自慢の露天風呂らしい。
黒い帯をきつく絞めると、気分的にも温泉客としての自覚が出てきて、ゆったりとした気持ちになれる。療養所内ではどうしても病人という気持ちが強く、早く直さなければという重いもあり落ち着けなかったが、ここに来てやっと本当に落ち着ける気がしてきた。
タオルを持ち部屋から出ようとすると、一歩踏み出した足がそれ以上踏み出せなくなった。目の前にさっきの女の子が頭を下げ、鎮座しているではないか。水谷が出ていくと下げていた頭をゆっくりと上げ、上目遣いに見上げていた。
「お風呂にご案内します」
「お願いします」
まったく予想していなかったが、彼女が傍にいることに違和感はない。いや、逆に当然のような気さえしてきた。今日始めて会ったような気がしない。
木造家屋の廊下をミシミシと音を立てながら彼女の後ろをついて行った。さすが毎日歩き慣れているためか彼女が歩く不思議と音がしない。まるで床を滑っているようである。
木造の仮設のような階段を下りて行くと、ひときわ明るくなっているところが見えて来た。そこがどうやら露天風呂になっているようで、沸き上がる湯気が靄のようになっている。
今まで女の子につかず離れずの距離でついていたのが、靄を見た瞬間歩みを止めた。
「どうなさったの?」
眉が少し歪んでいる。彼の失われたはずの記憶が、そこから目を離さないようにしている。
(どうして靄を見ると、足がすくむんだろう?)
確かに何かを思い出すようなきっかけのような気がした。しかし何となく胸騒ぎがして、まるで金縛りにあったようだ。
彼女の表情はあどけない中に冷静さが滲み出ていて、そんな水谷の表情を見てもそれほどビックリはしていないようだ。
静寂な時間が少し続いた。それが数秒なのか、あるいは数分だったのか水谷には見当もつかない。
水谷が正常に戻ることができたのは、露天風呂の方から一瞬響いた水しぶきであった。
(先客があるのかな?)
正気を取り戻した水谷が思った。ひょっとしてもう一人の宿泊客である老人かも知れないと……。
別に一人で占領し入ろうという気もなく、他の場所でバッタリ会うよりも初顔合わせはやはり風呂場というのが理想的ではないだろうか。裸の付き合いというではないか。
案内してくれた女の子に礼を言うと、水谷はさっそく浴衣を脱ぎ、露天風呂へと顔を出した。
岩場を削った人工の露天風呂ではあるが、そこにはなるべく自然な雰囲気を作り出そうとする創意工夫が見られた。水谷にとってその心遣いは嬉しく、しばし当たりを見渡した。
(素晴らしい)
少し余韻に浸っていた水谷は、今更ながら靄の凄さに驚かされた。表はまだ少し寒気が残っているのでこれくらいの靄は当然といえば当然だ。いや逆に露天風呂というもの、こうでなくちゃいけないとさえ思った。
「おやっ」
目が慣れてくるにしたがって露天風呂の全景が大体分かるようになってきた。一瞬だが不審に思ったのは先客がいるだろうと思って入った温泉に誰もいなかったからである。池のようになった温泉の表面は波一つなく、今まで誰もいなかったことを示している。
(思い違いだったか)
そのときはそれだけしか思わなかった。一つ屋根の下にいるのだから、そのうちどこかでお目に掛かるだろうと思うことでそれ以降は考えないようにした。ひょっとしてさっきも水しぶきの音が気のせいだったかも知れないと考えると何の不思議もないことなのだから……。
少しずつ顔が上気してきてある程度暖まったら湯から上がり、体を洗うため奥に設けられている洗面台へと向かった。木製のつい立の向こうはヒノキの香りが漂い、温泉が染み付き、少しぬるぬるしたヒノキの洗面器に湯を注いだ。
まったく気がつかなかったが、一瞬人の気配がしたので振り向くと、驚いたことにそこには胸から腰にかけての大きなバスタオルを巻いたさっきの仲居の女の子が立っていた。
「お背中流しましょうか?」
普通であれば驚きと恥ずかしさのため相手の顔を正視できずうつむいてしまうであろうが、温泉で暖まった体がその裸体に対し心地よい反応を示し、敢えて拒否する気にもなれなかった。
ましてや恥を掻き捨てることができるのが旅という開放感が、彼の中から羞恥心を拭い去った。
彼女はクリクリとした目をこちらに向ける。それは先ほど部屋に案内してくれた人なつこそうな表情とは対照的に、何かを彼に求めているように見える。
水谷は彼女に背を向け、その大きな背中で彼女に対してOKサインを送った。
何もかも分かっている彼女にその気持ちが伝わり、少しずつ近づいて来ると、水谷からタオルを奪い背中を擦り始めた。
「君、名前は?」
「古賀綾子と申します」
「ここは長いのかい?」
「いいえ、まだ半年です」
綾子は手馴れた手つきで体を洗ってくれる。初対面の女性に生まれたままの姿を見せ、体の隅々まで洗ってもらうことなど今まで想像したこともない。男としての願望はあったであろう。しかしそれを許さないのが理性というものだ。
背中を流してもらうと一緒に湯に浸かった。お湯の熱さから綾子の顔は見る見る赤く染まって行く。
「私、本当は熱いのが苦手なんです」
そう言って微笑んだ時の顔の表面からは大粒の汗が流れ出ていた。もう少しいたい気もしたが綾子に気を遣い、早めに出ることにした。後からまた一人で入りに来てもいいわけだし、別に温泉は逃げも隠れもしないのだ。
脱衣場に戻り着替えを始めると、さっきまでの仲居の服と違い、綾子は水谷と同じ浴衣に着替えていた。着替えながら終始水谷を見つめる綾子の目はうるうると濡れているのが分かった。
さっき同じ廊下の反対側からやって来た時は客と仲居の関係だったが、今はすっかりアベック気分でお揃いの浴衣を着て、同じように首からタオルをかけている姿を第三者となって見てみたい気もする。
部屋に帰ると料理が用意されていた。それも二人分。もちろん水谷と綾子の分だろう。
「心配いりませんわ。料金は一人分しか頂きませんから」
「でもどうして?」
「ここのサービと言っておきましょうか。元々ここは信頼のおける方からの紹介者しか宿泊しませんの。ですから私たちもそのつもりで精一杯のサービスができるんです」
それにしてもサービスという言葉がやけによそよそしく感じるのはなぜだろう。水谷は綾子がサービスからだけでこれだけのことをしてくれるようには思えなかった。確かに旅館の方針なのだろうが、そこにそれ以上の感情があるような気がしてならない。
(彼女は私に好意を持っていてくれている)
自惚れに近い思い込みかも知れない。しかし記憶を失った水谷の頭の中を今支配しているのは綾子だけだった。
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次