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短編集1(過去作品)

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 そういえば彼が最近医者にした話の中で、ある日の夢の話が印象的だった。
 元々夢の話は多いが、ほとんどが物語りになっておらず、スケールが大きいという理由で整理して話すことができなかったが、それは身近な話でしかも記憶を失う前の残像が夢となって現れたのではないかとさえ思える臥がある。
 その話を彼はまるで映画かドラマを見ているように話す。中に出てくるのはたぶん自分だと思うとは言っているが、話は完全に第三者の目から見たものである。しかしなぜかその夢はリアルに頭の中に残っているらしい。
 夢というのは目が覚めたその瞬間ある程度一気に忘れ、後は徐々に消えていくものだと思っていた。だから逆に目が覚めた瞬間、もし記憶の中に鮮明にインプットすることができたら……、そう考えると夢を記憶するタイミングはすべてその瞬間で決まってしまう。それだけに夢を記憶するということほど難しいものはないであろう。
 目を瞑ると目の前には夢で見た女の白い肌が浮かんでくる。自分を虜にしたその白い肌は初めて見たものではないように感じる。体が微妙に反応するのは夢以外でも接触があったことを意味しているのではないだろうか?
 水谷の話は最初の方こそ言葉を選びながら、何とか夢の中での女とのめくるめく官能の世界を語ろうとしていた。目の前に浮かぶことをそのまま話していて思い出そうとしているのではない分、口調は滑らかだが、話しているうちに彼の様子が少し変わってきた。
 露骨な言葉が少しずつ出始め、声のトーンが上がって行く。額からはほんのりと汗が噴き出し、喉が渇いているのか声が途切れがちだ。それを察した医者がゆっくりと立ち上ると研究室の奥の冷蔵庫から冷えたお茶を持ってくると水谷の前に差し出した。
 よほど喉が渇いていたのだろう。それを一気に飲み干すと荒くなった呼吸はさらにひどくなり、肩で息をしているようだ。
 教授は場所を変えようと言って今までいた自分の研究室から水谷の手を引くようにして表に連れ出した。
 すでに夕方近くになっていて、西日が建物の白いカベを黄色く染めていた。その様子を見ながら二人がやって来たのは、いつも水谷が恍惚状態で座っているあの西日の眩しいベンチである。
 そこが一番落ち着くのか、医者は彼をベンチに座らせ、自分もその横に腰掛けた。
 水谷が少しずつ落ち着いてくるのが手に取るように分かった。
 目を瞑り、水谷は少しずつその女のことを話し始めた。
「どう考えても、自分と恋人同士のようなんです」
 そう言いながら頭を傾げた。
「何かおかしな点でも?」
「今一つ釈然としないんです。今の私自身であれば絶対に恋人同士になるようなタイプには思えないし、何かその女に対し不信感を抱いているようなんです。不思議なんですが、それほど好きなタイプではないその女がやたらと気になるんです。そこで自分なりに尾行していたようなんですが……」
「それで?」
「どうもその女、私以外に他にオトコがいるみたいなんです。妻子あるオトコ、どこにでもいる中年サラリーマンだと思いますがその男と楽しそうに歩いている。その顔は私が今まで見たことのない顔、そうこの笑顔を私は彼女に求めていたのかも知れないと思いました」
 いよいよクライマックスに入ってきたが、いくら落ち着く場所といっても、水谷が少しずつ興奮していくのが分かる。
「それからどうしましたか?」
「やはりそこが夢の夢たるゆえんなのでしょうね。私の手にはなぜかナイフが握られていました。そして私の耳にどこからかこだまする声が聞こえたんです。裏切り者は殺せ!、と」
「……」
「あっという間に目の前に赤い液体が広がりました。不思議なんですよ、夢に色なんかないと思っていたんですが、私ははっきりとまわりが赤く染まっていくのを見たんです。でも行ってみると、一体のウサギの死体があったんです」
 水谷の夢はそこで終わったそうだ。
 確かに殺意のようなものを抱き、その瞬間手に握られたものがナイフということは、心理学的に大いに興味があるが、医者はそれよりも夢であるにも関わらず、はっきりと赤という色を認識できたことに興味があるようだ。これは心理学というよりもむしろ生理学の分野かも知れない。
 実際、この夢は当たらずとも遠からじであったが、水谷の夢の話を聞いた医者は、それが意味している内容については言及しようとはしなかった。


 ポカポカ陽気の中、心地よい揺れが眠気を誘い、気が付けば当たりの風景は一変していた。水谷の乗った電車が向かっているのは秘湯といわれている湯浅温泉というところである。電車で湯浅温泉入り口という駅まで家から約二時間、駅前にはスーパーとパン屋の中間クラスの個人商店が一軒あるだけで、何もない寂しい駅である。
 ちょうど待っていたバスに乗り込むと客は水谷一人で、彼が乗り込むのを見た運転手がゆっくりとやって来た。
 駅を出てすぐはまだチラホラ見かけられた民家も十分走っただけで、まったくと言っていいほど見かけなくなった。
 すれ違う車すらなく、駅に着いた頃には西の空に傾きかけた太陽も今はかすかにしか見えず、道の両側に立っている木の影が長く横たわっている。
 車はそれから約四十分間走り続けた。到着した頃はすでに日は落ちていて、暗闇が広がる中に温泉旅館の明かりが見えて来た。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
「こんばんは。お世話になります」
 まだ若い一人の仲居が人なつこそうな笑顔を浮かべ立ち上ると、水谷を部屋へと案内する。まだ交通事故の後遺症から少し足を引きずっているのが痛々しいが、仲居さんというよりは和服の似合う女の子というイメージの彼女は足のことには触れなかった。
「こちらです。どうぞ」
 六畳が二部屋といった贅沢な間取りである。
「この部屋の縁側から見える景色は最高なんですよ」
 なるほど縁側すべてがガラスの入った窓になっていて、朝になるのが待ち遠しい。
「ところで泊まり客は僕一人なの?」
「いいえ、もう一人ご老人が宿泊されております。もう一週間のご滞在になりますか……」
「そうですか」
「ここはいい所ですから、どうぞいつまでもおいで下さい」
「ありがとう」
 普通であればそうそう長居もできないが、リハビリを兼ねての水谷の場合、いつまでいることになるか見当もつかない。彼女の口調からして、ここに来る人は長期滞在が多いのだろう。例えば水谷のようにリハビリ目的、あるいは静寂を求めてやって来る芸術家の先生などがお得意さんなのだろう。
 元々ここは療養所の先生の紹介だった。記憶の方はともかく、ケガの方はほとんど完治していて、療養所に絶えずいる必要もないということでの紹介である。
 どうやらここの女将が先生と昔からの知り合いらしく、話はとんとん拍子に決まった。
「明日よかったら、私がこの当りをご案内しましょうか?」
「いいんですか?」
「藤原先生にはいつもお世話になっていますから」
 藤原先生とはここを紹介してくれた療養所の医者である。彼女は先生の名を口にすると急に人なつこそうな表情になって今までの営業スマイルではなくなった。
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次