短編集1(過去作品)
男はそれには答えず、奥で話をしている三人とは正反対の一番手前のカウンターに腰掛けた。ママは後ろの棚からウイスキーを一本取ると、グラスと一緒に男の前に置いた。ウイスキーはキープしてあったもので、暗くてよく分からないが瓶の表面には白マジックで何か書いてある。名前かニックネームだろう。
「それでね……」
その男に構わず、ママが話を始めた。まだ私とかすみは少しその男が気になったが、ママが話し始めるということは、いつも一人で来て一人で飲むことに慣れている人だという想像がつく。その男は自分で水割りを作って、一人で飲み始めた。
しかしどうも気になるのか、男がこちらをチラチラ見ている。
私もかすみもそのことはよく分かっていた。かすみも気になるのか、時々視線が一定しない。そのうちに話も何となくぎこちなくなってきた時、かすみがおもむろに立ち上った。
ゆっくりと男に近づくと、
「こちらに来られませんか?」
いきなり声を掛けられた男はさすがに驚いて、しばらくじっと彼女の顔を見上げていたが、彼女がこちらに戻ってくると気が付いたように立ち上がり、こちらへとやって来る。
ママもこのかすみの行動には少し驚いたようで、ハトが豆鉄砲を食らったような表情になっている。
たぶん他に客がいない時くらいは声を掛けることはあっても、それ以外はずっと放っておいただろう。一人でチビリチビリ飲むのが似合いそうな男である。
しかしこちらに近づくにつれ、明らかに表情が変わってきている。ぎこちなくではあるがニコニコテレ笑いを浮かべ、恐縮しているように見える。
「どうも……失礼します。お呼びに預かり光栄です」
そう言ってしきりに頭を下げている。どうやら腰の低さはどこかの営業社員だろうか?
「ところで営業か何かのお仕事ですか?」
私は思い切って気になることを聞いてみた。
「はい、小さな食品メーカーの営業です」
やはり、営業であれば四六時中人と会わなければならず、ウンザリしている気分を仕事から離れてからくらいは一人きりになりたいものだろうと思った。営業というと色々面白い体験を持っているだろうから、それを話題にできれば場が盛り上がること間違いなし。
私が話題をそちらに持って行くと、思った通り彼は堰を切ったように話し始めた。仕事を離れているという開放感から面白い体験に本人の感情がトッピングされ、へたな漫才を聞いているより面白い。私はすっかり話の中に引き込まれ、口も滑らかだった。
気が付けば話しているのは二人だけで、当たりは二人だけの空気で支配されていた。ママは聞き上手に徹しているし、かすみはただ黙って聞いているだけでリアクションもない。
しかし冷静になって彼を見ると、話しながらチラチラ視線を逸らしているのに気が付いた。どうやらかすみのことを見ているようである。かすみはそのことを知ってか知らずか相変わらず無表情で聞いていた。
話をしている主役の私を差し置いて、かすみが気になり出したことに苛立ちを感じる。
これは嫉妬だろうか? 私は今まで嫉妬というものをあまり感じたことがない。友達と共通の人を好きになるということもあまりなかったからだ。
「真由美とだったら喧嘩になることもないわね」
昔から皮肉ともとれそうな言われ方をしていたが、実際そうだったのだ。なぜか二対二であれば、友達が好きになった人と違う人を好きになる。。ただ単に好みの違いだけなのだろうが、時々自分が変わっているだけではないかと思うことがある。
人を好きになるのに、インスピレーションから入るパターンと、最初はそれほどでもなかったのに次第に思いが強くなって行くパターンの、二つのパターンがある。
私の場合はどうだろうか? そういえば第一印象で感じたなどなかった気がする。いつもジワジワ来るタイプで会っている時はあまり感じなくとも、それぞれの生活に戻った時に気になりだしたりする。
そして今まで好きになった人に感じたような思いを、この男に感じつつあるのだ。
相変わらず曖昧な返事しかしないかすみだったが、明らかにこの男を意識しているように見える。これはあくまでもオンナとしてのカンである。
すると間もなく、
「ママ、また今度来ます」
そう言ってママに声を掛け、私たち二人に向かい、
「今日は楽しかったよ、どうもありがとう。また会いましょう」
と言って、まるで逃げるように店を後にした。
「変な人」
と、かすみが呟く。
「ねえ、彼ってどんな人?」
私はカウンターで忙しくしているママに聞いた。
「私もあまりよく知らないんですけど、よく来られますね。それもいつも一人で……。キープしているウイスキーをいつもチビリチビリやってますね。何となく芸術家かのような気がして仕方ないんですけどね」
どちらにしてもあまり喋るタイプではないようだ。今日の彼とどちらが本当なんだろう。ひょっとして私となら波長が合うのかも知れない。
重々しい雰囲気ではさすがに口も重く、今までの喋り疲れもあってか、これ以上喋り続ける気にはならなかった。ママの方で少し落ち着くいいタイミングと思ったか、自分の仕事に精を出し、話し掛けても来ない。私にとって五分が三十分にも一時間にも感じられる時間帯だった。
かすみがしきりに時計を気にしている。この店の奥には白い少し大きな時計が懸けられていて安物にも見えるが、清潔感があり暗い店内には明るく映えていた。時計は午後十時を少し回っていて、そろそろ他の客も現れることだろう。
「それじゃあ、そろそろ」
そう言ったかすみを私はまだいいじゃないと言って止めようとは思わなかった。
「ねえ、連絡先教えて」
「ごめん、それはできないわ。またここでお会いしましょう」
少しかすみの顔色が変わった。何となく寂しそうである。何か事情があるのだろうか。そんな寂しそうな表情をされたらこれ以上突っ込んで聞くわけには行かない。
帰って行く後ろ姿を見送っていたが、この前のようにかすみが私に見えたりはしなかった。
私は思い立って立ち上った。いきなり立ち上った私をチラッと見ただけでママは洗物を続けている。そんなママを横目にカウンターを奥へと入り、トイレの扉を開けた。
扉を閉め、意を決して目の前に懸けられている鏡を覗き込んだ。
そこには私が想像していたものは写っておらず、写し出されるものが当然のごとく写っていた。
これで分かった。この間のは錯覚であり、、原因の一端は酔いと疲れからだろうが、人の言葉に左右されやすく、俗に暗示に掛かりやすい私の性格が見せた幻覚だったのだ。
トイレから出て来た私はなぜかその日がずっと一人だったような気がしていた。かすみがいたことも、後から来た男と盛り上がった会話もまるで数日前のことだったような気になったのである。カウンターに戻ってママと話をしていても、それは普通の世間話のようなものであって、決して二人のことが話題にならなかった。
そうひょっとして最初から二人だけだったのかも知れない……。
私は次の土曜日、今度こそどこかへ行こうという同僚の誘いを丁重に断り、もう一度例の美術館へ行ってみることにした。
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次