短編集1(過去作品)
ママはカウンターに身を乗り出すようにしながら左手を口元に添え、まるでヒソヒソ話をするかのようにしたので、私も思わず左耳を近づけて行った。
「彼女、ニコニコと微笑んでいるけど、表情が薄いのよ」
「どういうこと?」
最初はママの言っている意味がまったく分からず、薄いという言葉の意味を色々と考えてみた。
(顔色が悪いという意味かしら? それともまるで能面のようなポーカーフェイスという意味だろうか?)
「人間って生まれてくる時から、泣いたり笑ったりという行為は人から教えられるものではなく本能のままに出てきて、成長するにしたがって自然に身につくものでしょう。でも彼女に関して言えばそれを感じないの。本能からだけでしか笑っていないような感じ……」
言われてみればそんな感じがする。生まれてから今まで生きてきた時間を厚さと考えるなら、ママのいう表情の薄さも分かるような気がする。知り合ってからまだ半日しかたっていないが、何となく彼女が他の人と違う雰囲気を持っていると感じたのは、このことに由来しているのかも知れない。
少し考え込んでしまい、重苦しくなった空気を突き破るように、カウンターの奥の扉が開き、かすみが出てきた。奥は薄暗いせいもあってか、はっきりと表情を覗うことはできない。
しかしその表情が次第にあらわになるにつれ、明らかにかすみの顔が違っていた。
(えっ、私?)
まるで目の前に鏡があるかのようで、自分とそっくりの顔が覗いているではないか。
目を何度も擦り、パチクリとさせてみた。目が慣れてきて再度表情がはっきりとしてくると、先ほどの表情は自分の思い違いであることに気付いた。やはりかすみはかすみである。
(ママがあんな話をするから、見もしない幻影を見たのね)
と思うより仕方がなかった。
「どうしたの、そんな顔をして?」
私のその時の表情がよほどだったのか、かすみは座り際、私の顔を覗きこんだ。
「何でもないわ」
その声の調子がいつもと違ったのか、今度はママが私を覗き込む。
じっと見つめられ息苦しさを感じた私は、ちょうど尿意を催してきたのをいいことにトイレに立った。
スナックのトイレというのは狭いものだが、ここは洗面所だけは広く造られていて、しかもきれいである。
第一目的を達成すると私は気になっていた汗による顔のまわりのベタベタを取ろうと、小物入れに手を入れた。今日は最近になく暑かったこともあるが、何よりも強い日差しが気になっていた。紫外線対策が万全でなかったため、顔がベタベタと気持ち悪い。
小物入れから脱脂綿を取ると、そのまま鏡の前に立った。
(!)
鏡に映っている姿は私の知っている自分ではない。目の前に映っている姿はかすみそのものだった。またしても目をパチクリと開いたり閉じたりさせじっくりと見たが、今度は私の知っている自分の姿に戻っていた。
(夢というのは、こういうことをいうのかも知れない)
などと取り留めのないことを頭がよぎった。
例えば夢の中だから空だって飛べるだろうと思ってみても、人間は空を飛ぶことはできないという頭の中の常識がジャマをして、せいぜい浮くぐらいのことしかできないだろう。
今回の場合も一瞬だけ見る幻というのは、そんな夢のようなものではなかろうか。
たぶん無意識の中で、今日一日のことを夢に見るのだろうと思いながら、私は杯を進めた。
気が付くと私はベッドの中で寝ていた。目を開けると天井には見覚えのある照明があり、意識がはっきりしてくるにしたがい、そこが自分の部屋であることを悟った。
とりあえず喉の乾きを潤すことが先決だと思い、私は台所へ向かった。冷蔵庫から冷えたお茶を取り出すとコップに注ぎ、一杯分を一気に飲み干した。目が覚めてくるのが意識としてよく分かった。
台所のテーブルにコップを置きながら、椅子に腰掛け一息吐くと、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれているのに気が付いた。どうやらメモ書きのようである。そこにはボールペンで走り書きがしてあり、女性特有の丸文字で最後に「かすみ」と書いてあった。
内容を見るとどうやら酔いつぶれた私をここまで抱えてきてくれたのはかすみのようだ。「今日はこのまま帰るけど三日後また「コスモス」へ行きます」
と書かれている。時間については何も書かれていなかったが、今日くらいの時間に行けば会えるはずである。
その日出社すると同僚たちが口々に昨日のことを謝っている。別に謝ってもらう筋合いのものではないが、中には必死に言い訳をする者もいる。別に昨日のことは何とも思ってはいないので他人事のように思え、謝られると却ってぎこちない。「あまり気にしないで」
という言葉を彼女たちはどう感じているだろう。いくら普通に話してもこのせりふはどこかしらじらしさがある。
しかしもう私はあまり彼女たちと行動をともにしようとは思わなくなった。それは今まで集団意識の中で麻痺してしまった自分の年への感覚、分かっているのだが認めたくないという気持ちの強さから若い者の間に入って行こうという意地だったのかも知れない。
かすみとの出会いがそんな私を変えてくれるかも知れない。いや自分から変わらなければいけないのだ。
待ち遠しかった三日間が一週間くらいに感じられたが、仕事が終り「コスモス」の扉を開けると、まるでそこに毎日のように来ているような錯覚に陥るから不思議だった。
店内を見渡すとすでにかすみは来ていて、他の客がいないのはこの間と同じだった。かすみはこの間と同じようにカウンターに座っていて、ママと話をしているようだ。
「私もその話の輪の中に入れて下さい」
そういってかすみの横に座った私に、話の続きをしてくれた。どうやらママが「彼氏はいるの?」と聞いたことから始まったらしいが、「いない」と答えたかすみに対し、好みのタイプを聞いているところのようだ。もしそこで「いる」と答えていたら話の内容はまったく違ったところへ行っていただろう。
「私、結構あっさりしているのよ。タイプはと聞かれると難しいんだけど、自分の中で勝手に決めたラインの内と外で決まるのね。だから一見分かりにくそうに思うけど、パターンさえ分かってしまえばこれほど分かりやすいものもないんじゃないかしら」
「でもきっと皆そうよ。たぶん私もそうだもん。でも私なんか男の人は大体好きだから当て嵌まらないかもね」
とママが答えた。
確かにそうだ。人それぞれに考え方のパターンがあるから人との出会い、特に男女の出会いは難しいのかも知れない。相手が自分と同じ考えだとは限らないからである。
そういえば最近好みが変わったような気がする。
その話をすると、
「そりゃあ、当然よ。そろそろ落ち着いた人が気になり始める年頃よ」
ママがそう声を掛けた。落ち着いたタイプの男性をあまり意識したことがなかったので何とも言えないが、本当に気になり始めるのだろうか?
そんな話をしている時、入口に懸かっている重々しい鈴の鈍い音が店内に響き渡った。話に夢中だった三人は一斉にそちらを見ると、そこには一人の男が入って来た。
「あら、いらっしゃい」
常連さんであろうか、落ち着いた雰囲気の第一印象で、ママには馴染みがあるようだ。
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次