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短編集1(過去作品)

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 それは最近ミステリー作家として頭角を表してきた弓岡慎一という作家であった。私もミステリーが好きでよく読むので、共通の話題を見つけたような気がした。
「ミステリーが好きなんですか?」
「そういうわけではありませんが、この人の作品だけは読んでいます」
 弓岡慎一という作家は、ミステリーはミステリーでもサスペンスものではない。どちらかというと日常どこにでもあることから入っていき、最後のどんでん返しをブラックユーモアで綴るような作風で、時にはパラドックスへの挑戦のようなSFっぽい作品もある。
 学生時代から推理もの、サスペンスものを読み漁った私にとっては、弓岡慎一のような作風が新鮮に感じられるのだ。
 彼女の今読んでいる本は、以前に私も読んだことがあった。いつ頃であったろうか、最近だったか、かなり前だったか覚えていない。しかもその内容たるや、すっかり忘れてしまっていた。
 しかしである。最近物忘れが激しくなった反面、これから私のまわりで起こる何かに対して予感めいたものを感じるようになった。それが何か分かるわけではないが、胸騒ぎのようなものである。霊感というほど大袈裟なものではないが、それが起こる根拠も何もない状態からなので、虫の知らせというよりは正確かも知れない。
 今日、仲間から総スカンを食らい、ムシャクシャしても仕方ない状態だったにも関わらず、冷静に美術館にでも行ってみようとすぐに割り切れたのは、頭の中でそういった胸騒ぎがあったからである。
 しかしそれでも最初はあやふやなものであった。もし、それが確信に近いものに感じられた時があったとすれば、美術館の中でしばらくそこから離れられなくなった例の絵を見た時であろう。その時に得た確信がこの喫茶店に入り、現実のものとなったのだ。
 そうこう考えているうちに、彼女は今読んでいた本を読み終えたようだ。
「私も以前、その本を読んだことがあるんですよ。でもね、もう内容なんて忘れてしまったわ」
と、思わず話し掛けてしまった私に、彼女は意外なことを言った。
「そうですか……。でも必ずそのうちにはっきりと思い出すはずですよ」
「えっ」
「そんな予感がするんです。あなたはきっとこの話を思い出す時が来るような……」
 何を根拠に言っているのだろうか? いや、今日始めて会ったのに根拠などあろうはずがない。彼女にも何か予感めいた閃きがあるのだろうか。しかし私のそれに比べ、数段具体的ではないか。私の場合は予感があるだけで、それが何であるかなど本当に直前でないと分からない。
 彼女は内容をかいつまんで話してくれた。

 主人公は女の人で、密かに思っている男の人がいるのだが、その人に告白できず片思いのままでいる。その人はいつも電車の中でチラッと見かけるだけで、どこの誰かも分からないといった日々が半年も続いていた。ある時会社に一人の女性が入社してきた。なぜか意気投合し、会社が終ってからも行動を共にする仲になっていた。
 主人公の由紀は新入社員のはづきにだけ話すようになったことも多く、全幅の信頼を置いていた。
 しかしはづきは他人にも同様に優しく男にも人気があった。彼女が八方美人のように思えてならない由紀とはづきの間に溝のようなものが生じてしまった。すぐに思い悩む由紀はついに今までできなかったことを実行した。
 例の電車の中でいつも見かける男の人に告白したのである。男は驚いて戸惑っているようだった。女のようにナヨナヨした細面の表情が、見る見る脅えに似た焦りのためか真っ赤になっていく。そして次の日から彼は二度と由紀の前に現れる事はなかった。
 しかし由紀は思った。その男の脅えた顔を見た時、決してこの表情は初めて見るものではないと……。完全にその時の顔は別人になっていたのだが、その顔に懐かしさがあった。
 次の日、会社は大騒ぎになっていた。はづきの友人の女性が殺されたということで、はづきが指名手配されていたのである。当初犯人は男と思われていたが、結局指紋が決め手となり、はづきへの嫌疑が決定的となった。
 はづきは結局行方不明となり事件は迷宮入りとなったが、一ヶ月後白骨になりかかった自殺死体が発見され、遺留品や持ち物の中の写真から電車の中で見かけ、告白した男と分かった。身元は不明とニュースは報じたが、由紀には分かっていた。
「これではづきは永遠に私の前から姿を消した」と……。

 ざっとこんな話である。
 この話でしばし彼女と盛り上がり、すっかり意気投合していた。
 彼女、名前を木下かすみといい、年は私より二つ上の二十九歳である。やはりその位だろうと思っていたが、私などに比べてもかなり落ち着いて見える。
 話は本のことに終始した。よほど弓岡愼一のことが気に入っているらしく、いつも間にか話し方も評論家口調になっていた。他の話題にわざと触れさせようとしない雰囲気がある。
 気が付けば夕方近くになっていた。これほど一人の人と一つの話題で盛り上がったことなど学生時代以来である
「良かったらどこか連れて行って下さいませんか?」
 話題もさすがに少なくなって来た時、うまいタイミングでかすみがそう言った。
「前、よく行ったスナックだけど、行ってみましょうか?」
「ええっ」
 二人で駅近くまで戻った頃、街はネオンサインが明るかった。後ろを見ればまだ西日の影響で少し明るかったが、正面に見える空はネオンサインがなければ漆黒の闇である。
 駅前には大きなパチンコ屋があり、それが一番派手に光っているが、ちょうどその裏には赤提灯からスナックと飲み屋街が広がっている。さすがにまだ人通りは疎らだが、八時を過ぎる頃になると赤提灯からは騒がしい声が聞こえてくることだろう。
 横丁の奥の方にはスナックやバーが所狭しと犇めいているが、その中の一つ「コスモス」というスナックが私の行きつけだ。店はこじんまりとしていて、ほとんどが常連さんである。学生時代など、常連さんで知らない人はいないくらいだった。
 久しぶりに入った飲み屋街は相変わらずだった。街一つが大きな飲み屋街のようになったところではいざ知らず、このくらい中規模なところではそれほど店の入替わりはない。やはりほとんどが常連客を持っているという強みであろうか。
「あら、真由美ちゃん、久しぶりね」
 扉を開けた瞬間、カウンター内のママと顔が合った。客はまだ誰もおらず、私たちが一番客である。
 カウンター内のママの手は絶えず動いていて、開店の準備に余念がない。
「珍しいわね、お友達を連れてくるなんて」
「ええっ、でもついさっき知り合ったんですよ」
 そう言って私はかすみと二人で頷いた。
「あら、あなたらしいじゃない」
 いつも一人でやって来て、気軽に他の人との会話に入っていく私を見ているからそう思うのだろう。
 どれくらいの時間がたったのかと思い、話が一段落して時計を見るとすでに八時を回っていた。二時間がこれほどあっという間だったとは今までに感じたことがなかった。
「私ちょっとトイレに」
「トイレはこの突き当たりです」
 席を立ったかすみにママがトイレの方を指差して見せた。
作品名:短編集1(過去作品) 作家名:森本晃次