矛盾への浄化
それは、はづきが入院しているのを見て、自分も患者の立場から見ているような目を持っているような気がしていたからだった。子供の頃から今まで、一度も入院した記憶がない。もし、あったのであればはづきの入院を見て、患者の目から見ることも別に不思議ではなかったが、入院経験のない自分がどうして患者の目で見ることができるのか、不思議で仕方がない。
そんなに不思議なことであれば、もっと頭に残っていていいはずなのに、自分が入院して初めて、
――はづきの入院を見て自分が患者の目になった――
ということに気が付いたのだった。
自分が近い将来、入院することが分かっていて感じたのだとすれば、それはまるで虫の知らせのようではないか。
坂田が入院したのは、スナック「メモリー」で、タイムマシンの話をした男と呑んだ翌日のことだった。呑んだことが別に影響したわけではなかったはずなのに、昼前まで別に何ともなかったはずの坂田が、午後の講義に赴いた時、急に教壇で倒れたのだった。
救急車に運ばれて病院に入院することになったが、命には別状はなく、どうして倒れたのか不思議なくらい、身体も頭も問題はなかった。しかし、その時にはすでに記憶はなくなっていたのだ。
それでも、同じ記憶がなくなった人と、少し違っているということで、精神科の医者の話で、しばらく入院することになった。
「坂田さんは、記憶をほとんど失くされていますが、自分が誰であるかということは分かっているんです。一部の記憶がほとんどなくなっているようですが、ここまで記憶を失っているのであれば、普通なら完全に忘れているはずのことを覚えていたり、逆に覚えていて不思議のないことを忘れていたりするんです。つまり、記憶の失い方が普通ではないんですね」
というのが医者の見解だった。
その話を坂田にすると、
「僕は、前から、記憶が薄れていっていることに気付いていました。いずれは本当にすべての記憶を失うのではないかという懸念も含んでいたんです。記憶をすべて失うと言っても、それは自分が誰なのか分からなくなったりすることだと思っていて、本当にすべてを忘れるのではないとも思っていました。だから、自分が誰なのか分かっているにも関わらず、それ以外のことをほとんど忘れてしまっている自分が怖いんです。しかも、急に何かのきっかけ、たとえば事故のようなものによる記憶喪失なら分かるんですけど、徐々に前兆というものがあって、その延長線上に今の自分がいるのだと思うと、今となっては、何とかできなかったのかという後悔もあります。もっとも、あの時は本当にここまで記憶を失ってしまって、こんなに怖い思いをするようになるなど、想像もしていませんでした。逆に記憶をすべて失うということは、それだけ、何も分からないということなので、却って幸せなのかとも思っていたほどでした」
それを聞くと医者は軽く溜息をついて、
「そうですか。徐々にでも治療していきましょう」
何かを言いたげだったが、煙に巻いたのが分かった。
「そうですね」
とは答えたが、医者が坂田を見て、
――救いようのない孤独を隠し持っている――
ということに気が付いたということまでは、その時にさすがに気付かなかった。
坂田は、自分の部屋をあまり綺麗にしている方ではなかった。結構散らかっている方で、散らかっている方が却って落ち着くと思っている方だった。それなのに、自分が熱心にしていることだけは、きちんとノートにつけている。しかもそれは手書きだった。パソコンも普通に使えるし、ノートパソコンをいつも持ち歩いている坂田だったが、急に歩いている時は電車に乗っている時などに閃いたり思いついたりしたことを記入できるように、「ネタ帳」は絶えず持ち歩いている。
そんな「ネタ帳」は、今では何冊になるだろう。部屋の机の前に小さな敷居を作って、立てかけている。自分の部屋であり、誰も入ってこないという思いがあるので、別にどこかに隠しているわけでもない。結構目立つように置いていた。それも坂田の性格なのだろう。
――こうやって見えるところに置いていることで、いつでも思いつきそうな気がするんだ――
と感じていたからだった。
実際に、部屋にいていろいろな妄想が浮かんできた時、「ネタ帳」に書き込んでいくが、その時目の前に過去に書いた「ネタ帳」のバックナンバーが並んでいるのを見ると、さらにいろいろなことが思い浮かんでくるような気がするのだった。
坂田は、「ネタ帳」に自分が研究している心理学以外にも、いろいろ書き込んでいた。それはとどまるところを知らない妄想が自分の中で限りなく膨らんでくるのを感じていたからだった。
坂田は覚えていないが、この間スナック「メモリー」でいろいろな話をした中で、タイムマシンをハッキリと否定はしたが、本当はタイムマシンについていろいろ研究や妄想を繰り返し、一定の発想に辿り着いたことを、一冊の「ネタ帳」に著わしていた。
坂田は、スナック「メモリー」のことは覚えているが、その時に最近知り合った男といろいろな談義をしたことを忘れていた。
しかし、坂田は違った意識を持っていた。
一人の男の存在なのだが、それが談義をした男性で、坂田の意識の中では、その男とはずっと前から知り合いで、しかも、お互いに似た発想を持っているということだった。その男が坂田の発想に陶酔していて、
――僕の助手のようだ――
と感じていた。
まだ助教授になったばかりで、自分に陶酔してくれる助手などいるはずなどないと思っていたのだが、その男に対しては、なぜか親近感が湧いていた。
親近感が湧くという意味では、もう一人頭の中にイメージしている人がいる。
その人は立派な教授なのだが、今残っている意識の中で、自分が尊敬する教授とはまったく似ていない人物だった。
しかし、親近感という言葉では表現できないほど、その男性のことを分かっているような気がする。
しかも、その人のことをすべて分かっているように思えるのに、その人とは二度と会うことはできないという不思議な感覚を持っていた。
――これって一体何だろう?
と感じたのだが、いろいろ考えているうちに自分の中でハッと感じるものがあった。
――僕はこの親近感を感じてしまったことで、記憶を失うという憂き目を見ているのかも知れない――
と感じたのだ。
坂田は、記憶を失った今、
「タイムマシンを信じますか?」
と聞かれると、
「ええ、信じます」
と答えるかも知れない。
タイムマシンを信じなくなったのは、いきなり発想が思い浮かんだわけではなく、研究を重ね、想像を深めていく中で思い浮かんだ発想なのだ。したがって、記憶のほとんどを失ってしまった坂田には、タイムマシンに対する発想は皆無だった。というよりも、他の人と同じ、
――夢見るレベル――
なのだ。それだけに、もし今、自分が書いた「ネタ帳」を見て、本当に自分が書いたものだと言われても、一様に信じられるものではないだろう。坂田のような人間ほど、記憶を失ってしまってからの元の自分とのギャップが大きい人間もいないかも知れない。一度記憶を失ってしまうと、取り戻すのは至難の業ではないだろうか。