矛盾への浄化
倒れた時の坂田は「ネタ帳」を持っていなかった。バックナンバーは部屋にあるが、いつもカバンにしたためているはずの「ネタ帳」がなくなっていた。そこに「ネタ帳」を持っているのを知っているのは、記憶喪失になる前の坂田だけのはずだ。記憶を失った坂田が覚えていないのだから、誰が知っているというのだろう。そこに行ってしまったのか、気にする人もいるはずもない。
「坂田教授は、こんところに手帳を忍ばせていたんだ」
男はほくそ笑みながら手帳をめくっていた。
彼は、まだ助教授になったばかりの坂田のことを「教授」と呼んだ。
暗がりの部屋に一か所電気がついている。なぜそんな真っ暗な部屋にこの男は一人佇んでいるのか、誰一人として知る由もないだろう。ただ、もしこの男の行動を知っているとすれば、坂田だけではないかと思う。記憶さえ失わなければ、彼のことを知っていて不思議はないからだ。
男はおもむろに坂田に手帳をめくり始めた。一ページ一ページ、丹念にめくっている。慎重に見てはいると、そのスピードは一つ一つをゆっくりと見ているという雰囲気ではなかった。何かを探しながら読んでいて、必要のないところはスル―しているように見えるが、実際はすべてをスル―できないことを分かっている。坂田はメモを他の誰かに見られるのを警戒し、なるべく人に分かりにくい書き方をしていた。
――坂田語録――
とでも言えばいいのか、謎めいた文章も少なからず存在していた。
――まるで中世のお城のようじゃないか――
城というのは、敵の侵入を考えて、なかなか侵入できないように迷路のようになっていたり、行きやすい方には罠を仕掛けていたり、普通に進んでいれば近づいているはずの場所から実際には離れてしまっていたりするものだ。
それは芸術として様相を呈しているが、坂田の場合も同じだった。
――本当に関係ないと思ってスルーしていると、最後には何も発見できないのではないだろうか?
彼もそのことは分かっていた。彼は坂田のことを知っているのである。
実は記憶を失ってしまったことで、坂田は彼の記憶も消えてしまったのではないかと思えるのだが、実際には彼が坂田を知っていても、坂田は彼のことを知らないのだ。自分の知っている坂田のことをイメージしながら男は「ネタ帳」を見ていたが、最後まで(と言っても、記憶を失う寸前までなのだが)読んで、どうも、中途半端な気がして仕方がなかった。
――これには前があるのかも知れない――
書いてある内容は、一見支離滅裂のように見えるが、書いた本人の気持ちになって考えると、ネタが微妙に繋がっているのに気付くはずだ。
――これの前が存在するのではないだろうか?
そう思うのも当然のことである。
そして、「ネタ帳」全部をわざわざ持ち歩いているはずもなく、あるとすれば坂田の部屋にしかないと思っていた。
男は盗人の経験はないが、「侵入セット」のようなものを所持していた。しかも、彼には、
――俺は絶対に捕まることはない――
という自信があった。いや、それは自信というレベルのものではなく、確信だったのだ。つまり、彼にとって、
――物理的に逮捕されることはない――
という確信を持っていたのだ。
盗人の経験はないが、侵入に関しては慣れたものだった。
「盗人と侵入と、どこが違うんだ?」
と、何も知らない人はそう思うだろう。いや、普通が何も知らない人であり、知っている方がおかしいとも言える。
男は坂田の部屋から難なく残りの「ネタ帳」を取り出すことができた。坂田自身も「ネタ帳」を隠しているわけではなかった。一人暮らしの自分の部屋。隠すまでもないことだ。
それなのに、もし彼以外の他の誰かが坂田の部屋から「ネタ帳」を盗もうと画策すれば、きっと本懐を遂げることはできないだろう。
――灯台下暗し――
隠しているわけではなく、一番目につきやすいところに置いている。だからこそ、坂田の性格を知らない人なら、見つけることは困難であろう。
なぜなら、「ネタ帳」のように人に見られたくないものは、普通なら誰にも目につかないところに隠すのが普通なのに、坂田は隠そうなどとしていない。目の前にあっても、それを大切なものだと思わないのだから、絶対に見つけることはできない。何度も目に触れるはずなので、最初にそれを
――「ネタ帳」ではない――
と認識すれば最後、二度と怪しむことはないだろう。
ミステリー小説などでも、
「一度警察が調査したところであるなら、そこが一番安全な隠し場所だ」
という、それこそ心理学の原点にも繋がる発想だと言えないだろうか。
男は坂田という人間が、自分しかいない部屋では無理に隠そうとしないだろうことを知っていた。だから、それが「ネタ帳」であることをすぐに理解したのだ。
――長居は無用――
ということで、闇に紛れて必要なものだけを手に入れると、手順よく退散していった。その間約二十分くらいのものだったであろうか。闇から闇にその間の時間が消えてしまったようだった。
男は再度自分の居場所である暗闇に身を潜めながら、スポットライトで「ネタ帳」を眺めていた。今度は最新版を読んだ時のように時間を掛けなかったわけではない。今度はゆっくりと時系列に沿って読み込んでいる。それはまるで学問書と読んでいるかのようだった。
――なるほど、さすがに教授は以前書いた方が難しい――
今度は「ネタ帳」の書き出しからになるので、完全に時系列に並んでいた。最初の頃の方が理解しがたいのは。本人の文章能力によるのが大きな理由だが、まるで小説を読んでいるかのように、物語形式になっていた。
それだけ、自分の文章が難しいと分かっていたことで、少しでも分かりやすくしたのか、そのせいで読んでいて、どこか違和感を感じてしまっているようだった。
それはギャップというよりも文章のアンバランスさによる書き手の人間性の問題で、まるで子供が書いたかのように思える最初の頃の文章と今の坂田の性格を比較すれば、ギャップなどという言葉で表させるものではない。そこに心の奥に潜む大きな溝のようなものを発見した。その溝には、
――埋めることのできない時間の溝――
が存在していることを知った。
その時、男はある光景を思い浮かべていた。
男は目の前にいる人間を眺めていた。目の前に見えているので、距離的には短く感じられ、少し歩み寄れば近づけるのが分かっていた。
相手が動かないのも分かっていた。当たり前のように主人公は目の前の男に近づこうと前に進んだ。
それなのに、相手に近づくところか、距離が広がっているのを感じた。じっと相手の男を眺めていたが、その男はこちらを意識することもなく、反対側をずっと見ていた。
すると、主人公の男は急に寒気を感じたのだ。
誰かに見つめられている心境、つまりは自分が見つめているつもりでいつの間にか、その男と立場が入れ替わっているのだ。
――じっ見つめているつもりで、背中から視線を感じる――
いつの間に入れ替わったというのだろう。後ろの視線が自分が先ほどまでしていた視線だと思うと、本当に不気味だった。
しかし、不思議なことはそれだけではなかった。