矛盾への浄化
坂田には、最初から落ち着きがあったのか、それとも後から落ち着きを取り戻したのか分からなかったが、落ち着いている表情を見た時、
――何かが吹っ切れたのかも知れない――
と思うようになった。
初めて入った女性の一人暮らしの部屋。女性とほとんど付き合ったことのなかった坂田には、本当なら眩しいものだったのかも知れない。しかし、目の前に広がっている部屋は、想像していた女の子の一人暮らしとは違い、質素に感じられた。どうしても、女の子の一人暮らしの部屋というと、ドラマで見た部屋をイメージしてしまうのと、実際に入ったことがないということで、過剰に想像してしまうのも無理のないことだった。そういう意味では第一印象が質素に感じられただけで、慣れてくると、
――こんなものだな――
と感じるようになったのも事実である。
質素だと思ったことに、坂田自身、違和感があった。それは、
――男性の匂いが感じられないだろうか?
という思いがあったからだ。
そう思って部屋を観察した。
「男性をこの部屋に上げたことはないような気がします」
坂田の気持ちを察したのか、言い訳にも聞こえるようにはづきが答えた。
――勘が鋭いんだな――
と思ったが、それは盲目のコウモリの聴覚が発達しているように、記憶を失ったことが意識の中に、
――感覚の鋭さ――
を植え付けたのかも知れない。
コウモリの場合は、本能によるものであって、それは防衛本能と呼ばれるものから来るものであろう。はづきの場合も感覚に鋭さが加わったのだとすれば、そこに防衛本能が働いていると考えるのが自然である。
「私、このお部屋に帰ってきて、最初に感じたのは、部屋の狭さだったんです」
はづきはきっと自分の心境について話をしたいのだろうと思っていたところに、部屋の広さについて語っているのは意外に感じられた。そして、話をしている表情にはかなりの落ち着きがあることから、彼女が坂田を呼んだのは、孤独に耐えられないからではないことに気が付いた。本当に最初は孤独に苛まれたのかも知れないが、すぐに落ち着きを取り戻したのに違いない。
そういえば、心理学の世界でも、部屋の広さをどう感じるかということを研究している人もいると聞いたことがあった。目の前に見えていることが心の中でどのように写っているか、それが研究の対象だったのだろう。
「部屋が狭いと思うということは、きっとかなり過去に見た記憶を紐解いているのかも知れないね」
記憶喪失の人には、いくつかの種類があるだろう。近い過去のことは完全に忘れているが、遠い過去の記憶はどこかに残っている場合。完全に過去の記憶が消されている場合。最近の記憶は残っているが、一年くらい前からの記憶がまったくない場合。
一番最後のケースでは、本人は記憶喪失という意識はないかも知れない。ただ、
「忘れっぽいだけだ」
と思っているとしても、無理のないことだった。
ただ、自分の部屋を狭く感じられるということは、最初のケースが考えられるのかも知れない。同じものを見るのでも、過去になればなるほど、狭く感じられるものだからである。部屋が小さく感じたということは、その記憶が子供の頃のものだということになり、子供の頃に感じた孤独が一人になった時、よみがえってきたのかも知れない。
――いずれ、彼女の記憶はよみがえるということだろうか?
五分五分だった思いから、記憶がよみがえる方に傾いたのは、その時が最初だった。そう思うと、坂田は是が非でも自分の研究に役立てたいと思うようになっていた。
坂田はその日、午後八時近くまではづきの部屋にいた。コーヒーを入れてくれたはづきに、
「寂しいから、もう少しだけ一緒にいてください」
と言われては、すぐに帰るわけにもいかなかった。もっとも呼び出されてすぐに帰ったのでは、何のためにきたのか分からないというものだ。寂しい思いをしている人に助けを求められたのだから、寂しさを解消してあげるのが最低限の一番の仕事だった。
それでも、さすがに疲れたのか、
「ごめんなさい。私、とても眠くなってしまったわ。寂しいと言っておきながら、何と言ってお詫びを言えばいいか……」
見ていても、憔悴しているのが分かっていた。顔色も表情も冴えなくなってきているし、ここは男として気を遣ってあげなければいけないところである。
「いや、いいんだよ。僕もそろそろお暇しなければいけないと思っていたところだからね」
本当にそうは思っていなかったが、時間的にも確かにちょうどいいかも知れない。ただ、坂田はどこか物足りなさを感じ、このまま帰途につく気はなかった。そこで、スナック「メモリー」に顔を出してみることにした。
スナック「メモリー」には久しぶりに顔を出すことになる。最初にはづきと一緒に行ってから、数回しか行っていなかった。特に最近はご無沙汰で、二週間ぶりくらいになるであろうか。
店に入ると、先客が一人いるだけだった。
――どこかで見たことがある――
と思っていたが、最初に来た時にいた客のように思えた。常連になってからほとんど見かけたことのなかった人だったが、久しぶりに来るといるというのは、まるで自分を避けていたのではないかと邪推してしまうほどだった。
気にはなったが、無理に話しかける相手ではないと思っていたので、同じカウンターでも、ずっと離れた場所に腰かけて、一人でチビチビやっていると、
「坂田助教授さんですよね?」
と、相手の方から話しかけてきた。こちらが話しかけようとしないと、相手も同じようにこちらを無視しているように感じたが、ひょっとすると、声を掛ける機会を伺っていたのかも知れない。
「はい、そうですが、私のことをご存じなんですか?」
「ええ、こちらのお店の方から伺いました。常連さんでいらっしゃるということでしたが、心理学をご専攻とか?」
「はい、大学で研究しています」
「実は私も心理学には少し興味がありまして、大学時代には心理学を専攻しておりました」
彼は、まだ二十代前半であろうか。大学生と言っても通じるくらいであるが、よく見ると、坂田よりも年上に見える時がある。人の年齢というのは分かりにくいものだが、彼はその時々の表情によって、感じる年齢が違って見えてくるようだ。
「心理学は面白いですか?」
「面白いですね。知れば知るほどもっと奥を知りたくなる。そんな学問だと思います。しかも、全然違うことだと思うようなことも、何かのきっかけで急に結びついたりするんですから、それを発見した時、これ以上楽しいことってないなって思ったりもしますよ」
「その考えには僕も同調しますね。正直、その思いがあるから、大学で研究していると言っても過言ではありません」
「それに、心理学は他の学問や、色々な現象と結びついてまったく違った顔を見せることもありますからね。そのあたりも僕は面白いと思いました」
「ほう」
彼はなかなか考えていると思った。坂田も、そういえば自分が心理学を志した時、彼と同じような思いを抱いていたのを思い出した。あれはまだ高校に入学した頃だっただろうか。何がきっかけだったのか覚えていないが、